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人が変えることができるのは [ちょっとまじめに]


人だけだと思うんです。社会じゃなくてね。この社会がいけないとか、社会がわたしを差別するとか、そんなの違うと思う。いけないのは人であって差別をするのも人。そういう制度を作ってるのも人。思想を作って思想を伝えているのも人。社会は季節や土地や自然と同じでそこにあるべくしてあるだけのもの。なのにそれを人がいじって「これがわたし達の社会」「この社会とあの社会は違う」なんて言い出すからおかしなことがはじまっちゃう。そうやって本当はびろーんって限りなく広がっていてすべての人がいるのが社会なのに、区切りをつけて境をつくって内側と外側を作り出すから内側に入れない人ができて差別が生まれる。差別を産んでいるのはそういう内側と外側を持つ社会を作り出したい人だと思うよ。だから、どんなにいい目的であってもメンバーシップを定義するグループを作りたがる人をわたしはなんとなく違うなっていっつも思っている。ひとり一人が変わっていかないと社会は変わらない。そして、意見があわない人と考え方をすり合わせるのはすごく大変。偏見を持ってる人にそれは偏見ですよって言うだけじゃなんの解決にもならない。軋轢を生むだけ。どんなにあせっても一気に「社会」を変えることはできない。人間の数ってすごいからね。劇的に革命とかなにかを起こすことなんてゆがみを生じるだけだよ。だから、パレードとか公開パフォーマンスとか、なんか違うなって思ってる。意義はわかるしいいと思うんだけど。わたしは淡々と自分が正しいと思うように生きていきたいし、そういう中で無数の人に触れていくだろうと思う。そういうひそやかな積み重ねを多くの人がしていて、それは歴史には残らない。だから、あとから見てなんとなく華やかなものが歴史を動かしてきたように見えるんだと思うけど。でも、本当に世の中を変えているのはそうやって淡々と自分の幸福を探しながら生きている無数の無名の個人なんだと思う。まあ、そんな風にわたしは考えているわけです。


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くろすけ

社会はマイノリティを「差別」してるわけじゃなくて、その制度の中にマイノリティを想定していないだけなんだよね。少なくとも今の日本の状況は。マイノリティであることは社会に否定されるということではなくて、ただ、法律やらなんやらに不便なところが多いということなんだと思う。
でも僕は同性愛者であることで(いまのところ)不便な思いはしていないし、むしろ高校で経済的に独立しようとしたときのほうが、学校も役所も不動産屋も不便だったな。
だから、マイノリティが不便なのは社会の問題というよりは、仕方のないことなんだよね。集団に対してある程度の一般化をしないと法律はつくれないし。

核家族がいつの間にか社会のマジョリティになっていたり、女性の社会進出が進んでいたりするのと同じように、セクシュアリティの多様化も、(今の日本だったら)誰が反対しようが賛成しようが進んでいって、徐々に社会制度にも反映されていくんだと思うんだよね。
とりあえず、こう考えている僕がすることは、役所での手続きのときにしのを扶養に入れられるのかどうか窓口の人に確認することです。ダメならあっさり引き下がります。<そういう需要があることを地道にアピール^^
by くろすけ (2007-10-28 15:04) 

まりえ

以前、福岡でゲイ映画祭があったときにその関連イベントでワークショップがあったんですが、主催者の人が言っていたのは「草の根的な活動も大切だけど、日本の社会とか制度とかを変えるのは上から攻めるのが効果的」ということです。
例えば、性同一性障害の社会的認知度が上がったり。
私は、経済的に結婚しなくても生きていけますけど、経済的な理由で男性と結婚することを選ぶ人もいると思うんです。
ということは、(自分を含めた)そういう人に向けた制度があってしかるべきなんじゃないかと思うし。
例えば、事故とか病気とかの連絡をしてほしいと私も思います。
うーん、勉強不足でうまく言えないですけど。
しかも、しのさんが違和感をおぼえてらっしゃる「社会」という言葉を使ってすみません。
私自身はその言葉にそんなに違和感がないので。

くろすけさんのコメントに、私はすごく共感しました。
マイノリティって、不便なんだと思います。
セクシャルマイノリティは、外見でそれとわからないので、認知度が低いと思うんです。
認知度を上げるという意味で、パレードなんかは有意義だと思います。
でも、私自身はクローゼットなんですけど。
会社の人とかには彼女がいるなんて言えないですね。
長くなってすみません。
by まりえ (2007-10-28 20:01) 

しの

> くろすけ

集団に対する一般化とか個人が継続的存在であって家族というものが実在するとか法律っていろんな前提条件があるんだよね。それはくろすけが言うように法律が成立した時点における「社会の構成員」イメージの最大公約数なわけだと思う。だから、「社会構成員」が多様化していけば、その最大公約数は変わっていくわけだし、最終的には制度に反映されていくんだと思うんだよ。時間がかかるけどさ。だって、制度に反映させたほうが「権力者」にとっては都合がいいじゃん? 同性愛者もパートナーシップを登録させて(結婚制度)、その関係の管理をすることを最終的には権力は好むと思うんだよ(と、権力嫌いのわたしは思っちゃったり)。

核家族だって、わたしが子供の頃にはひどいものみたいに言われてて、二世帯同居なんてあったりまえだったけど、今は同居するなら結婚しないって言ってもそれほど極端なことだと思われなくなったしね。ただ、そういった変化は30年くらいかかってるわけだけどさ。

だから、くろすけがしてるみたいに地道にぼちぼちやっていてそれがあちらこちらでおきていったら50年もすれば制度は変わっていくと思うんだよね。その間、確かに同性愛者の権利は守られていないかもしれないけれど。うーん。「社会の下部構造」とか「社会制度」とかを歴史的観点から論じるのか、個人の幸福を中心にすえて論じるのかで時間がかかることの是非については意見が分かれると思うんだよね。

でも、絶対に変わるよ。わたしが生きているあいだは無理でも、100年後200年後には。そういう制度が実現したときに、わたしがかつて教えた子供達やワークショップを通じて触れてきた人たちが、「ああ、こういうことをいっとった人がおったな」ってぼやーと思い出してくれれば幸福の至り。笑。
by しの (2007-10-28 21:02) 

しの

> まりえさん

コメントありがとうございます。うれし。えへ。

すごい長文になっちゃった。読み飛ばしてください。自分で考え直してるひとりごとみたいなもんです。

上のくろすけへのレスにも書いたのですが、今生きている個人の権利が守られるかどうか、ということを考えると、確かに上からの変革は早いですし確実です。

女性同性愛者の権利について、

女性の平均収入は男性のそれの7割であり日本社会の隠された貧困を構築している。そしてこの性差による経済格差により女性同性愛者カップルの同居問題は隠れた社会的圧力を受けることになる。そして、自分のセクシュアリティーにもかかわらず不本意に男性との結婚を選択する女性同性愛者も出てくる。

って言うのはよくいわれることですよね。ただ、わたしはこれは、特に同性愛という視点を入れてこなくても、すでに存在している雇用均等法などをザル法でなくし独立した監視組織をつくり女性の権利を守ることで解決できると思うんです(女性同性愛者の問題について語られるときに女性の権利の問題とごちゃ混ぜになってることは多いですよね・・・)。また、病気や怪我や入院のときの連絡なども家族形態が多様化していている今、血縁者じゃないと駄目、みたいな古臭いことを言ってるほうがどうかと思うんです。まあ、だから、このあたりのことは確かに行政がすばやく対応してくれればいいのですが。

こういう制度問題に関しては、行政が上から対応してくれよ、と思うのですが、もう少し大きな意味での「変革」について、わたしは「上からの革命」というものを根本的に信じていない、というのがあると思います。明治維新しかり、第二次世界大戦後の民主改革しかり、今話題(?)の憲法第9条問題しかり。

憲法第9条に関して言えば、選挙権を持つ日本国籍保有者が憲法第12条を掲げて、「わたし達国民は政治家や役人をきっちり監視して自分達の権利を不断の努力により守り続けるぞ。平和だってわたし達が守るんだ。だから、第9条がなくても日本は軍国主義には絶対に戻らないんだ!」って言うのであればなくなってもOKだと思うんです。でも、上からの改革はそこに何らかの利権や政治的思惑が隠されていると思うので、一切信用できないのです。この辺、わたしはけっこうアナキストかもしれません。

だから、制度問題に関して言えば、「行政がさっさと対応しろ、そのために税金払ってんだよ」という感じ。そして、意識や思想や「社会」のあり方に関して言えば、時間は掛かるけれど一人ひとりがゆっくりとよりよく変わっていくことを信じて自分にできる小さなことをぼちぼちし続けていく感じかな。それは、こんな風に記事を書いてコメントをいただいて、それに対して自分の意見をまた見直して、ってことも含みます。だから、まりえさんのコメントには本当に感謝です。

パレードで可視化をすることは有効だと思うんです。ただ、パレードのようなハレの儀式につきものの「非日常性」にちょっと不信感を抱いているんです。だから、わたしはパレードに行くのではなく、日常生活の中でオープンであることでセクシュアルマイノリティーが日常生活にいることを周囲にさりげなくアピールしたいんです。でも、こんなことができるのはわたしの置かれた環境がめっちゃくちゃ恵まれているからです。理解のあるくろすけの家族、まったく理解がなくて縁をさくっと切ってくれたわたしの家族、理解してくれている息子、多様性が日常の今住んでいる町。ありがたいことです。

それから、クローゼットですが。それでいいとおもいますよ。だって、日本の社会でオープンにしていたらどんだけ差別とかにあうかわからないもの。性指向は犯罪じゃないんだから、自分にとって不利益があるとか、嫌な思いをするかもとか、差別されるかもとか、そういう可能性があるならばクローゼットでいいと思います。間違ってるのはそれこそ「日本の社会」なんだから。ただ、いえないことはいろいろなつらさをもたらしますよね。そういう部分に関するケアが制度として存在していればいいのに、と時折思います。

わたしのレスも長々してしまってごめんなさい・・・!
by しの (2007-10-28 21:03) 

fairy

はじめまして?で、いいのかなと思いながらのお邪魔しますデス。
最近、sai-yu★記さんやまりえさんの所で、チョクチョク?しのさんをお見かけしています、fairyです♪
えと。まりえさんへのコメント横で申し訳ないのですが。

>パレードで可視化をすることは有効だと思うんです。ただ、パレードのようなハレの儀式につきものの「非日常性」にちょっと不信感を抱いているんです。だから、わたしはパレードに行くのではなく、日常生活の中でオープンであることでセクシュアルマイノリティーが日常生活にいることを周囲にさりげなくアピールしたいんです。

えと、自分の不勉強と意識の低さから、迷走して靄のかかっていた事が、手がかりといいますか、心にストンと落ちてきたような気がします。
あたし自身は、それこそ自分の信頼しているお友達にくらいしかアピール出来てないし、第三者的にしか言えない状況なんですけれど・・・。
でも、パフォーマンスの「非日常性」への不信感というか、留意、なのかな?
なるほど、そういう事だったのか・・・と、読ませていただきました。
目から鱗を通り越して、喉仏から猫!?みたいな気持ちです(笑)
ありがとうございました!!!!
あと、はじめまして、であたしが言うのは失礼かもしれないですが・・・。
裁判のこと、大切な方との新たな出発、本当に本当におめでとうございます(*^_^*)♪一人ひとりの幸せから始まる、本当の多様性への寛容に期待です。そういう意味でも、HAPPYな気持ちをお裾分けさせていただいたような気がしています。ありがとうございました(*^_^*)
by fairy (2007-10-28 23:45) 

fairy

あっ!!!お裾分けしていただいた、でした(^_^;)
すみません・・・恥かしい★
「アホなヤツが来た」と思って、苦笑いして許していただければ・・・(>_<)
by fairy (2007-10-29 00:04) 

しの

> fairyさん

はじめまして。わたしもときどきお見かけしておりました。これからもよろしくお願いしますね。

タイプミスとか気にしないでくださいねー。わたしもものすごいのをしょっちゅうしています。

パレードに対してなんとなく感じていた「違う」感じがあるんですよ。有意義なのはわかるし、ああやって可視化されるのはすごい。お祭りみたいに楽しく騒いじゃうのも、いつでもしかめつらしく人権とか権利について語っているだけじゃないのも、とってもいいと思う。でも、なんか違うんだよなーって思っていたんです。それで、まりえさんにレスを書いていて、急に自分でも腑に落ちた感じです。喉仏から猫出ちゃいましたか。わたしは耳から鳩が出ますよって感じです(笑)。

お祝いをありがとうございます。本当にやっとここまでこれた・・・った感じです。ここまでたどりつく前は、自分ではすべてが終わってもなおかつ復讐したいとか相手を不幸に突き落としてやるとか、わたしのほうがたくさんもらわずにはいられないとか、そういうネガティブな気持ちが自分を支配し続けるんじゃないか、と心配していました。それがなくて、ノーサイドのあとのラグビー選手のような気持ちです。ああ、フィールドに高く立つゴールポストの白さが目にしみる・・・というか。

本当に、多様性が緩やかに許容される柔らかな社会がいつか実現することを祈るばかりです。
by しの (2007-10-29 01:36) 

くろすけ

なんか、すごい充実のコメント欄だね。笑

> まりえさん
共感していただけて、うれしいです。^^

ワークショップの主催者の方の言葉については、その方は自分がしていることを正しいと思ってしているわけで、そういうバイアスのかかった意見だと思うんですよね。
パレードも、認知度をあげるためには有効ですけど、しのも書いているように、そうやって認知されるのは「非日常」の状態で、それは「僕たち」にとって良いことなのか悪いことなのかはよくわからないです。差別を助長する可能性もあるかな、って。
でも、パレードを見て勇気付けられたりするひともいるだろうし。

まあ、ようするに、行動の良し悪しは未来から振り返ってみないとわからないので、ひとりひとりが自分の人生を悔いなくいきられたらそれでいいんじゃないかなー。

最後に話を発散させてすいません・・。^^;
by くろすけ (2007-10-29 17:41) 

しの

> くろすけ

> ワークショップの主催者の方の言葉については、その方は自分がしていることを正しいと思ってしているわけで、そういうバイアスのかかった意見だと思うんですよね。

だから、わたしの意見もわたしなりのバイアスがかかってると思うんだよ。それでそういうバイアスって言うのは自分ひとりで考えててもなかなかわかんないんだよね。うん。

本当に、いましていることがそれでいいのかどうかなんてまったくわからない。だから、今自分が悔いがないように生きていくのが一番なんだと思う。そうやって自分が幸せになる形を模索して、一緒に生きて行こうね♪うふ。
by しの (2007-10-29 18:45) 

asami

今回のコメント、日曜の朝にちまちま携帯で書いてたら、送信のときに送信ミスしちゃって。涙。
でも、コメントの中身の濃さにおののき><;
あんまりネットに触れる時間がなくて。
理解しきれてないかも。ゆっくり読み直してみます。


------
ひとはそれぞれちがってて。多様性があって当然で、多様性があることを認識して認めてくれたらいいんだけどね。

その多様性とは、たとえば心身にハンディを持ってたり、性的マイノリティと括られるあらゆること(同性愛とか自身の性の違和とか)や、日本においては日本語を母国語をしないひとや移民とか。
思考や志向や嗜好の違いがあって、たとえばバイセクシャルな人も、バイになりたいノンケも、バイになりたくてもなれないゲイも、バイにもなりたくないというノンケも、ひとそれぞれで。そしてバイになりたくないノンケにも家族にいる同性愛者とパートナーの交際・同居を認めたり、認めなかったり。

いろいろあっていいと思う。

ひとそれぞれってことは考え方もそれぞれで、草の根推進派もいれば、トップダウン期待派もいれば、ロビーイスト養成派だっていて。ゴールもアプローチも違うかもしれないけど、それでいいじゃないか、と。

ただ。
人間の特性なのか、多様性を分かっても、好き嫌いがあったりして。
話し合ってそれぞれの考え方を共有できたらいいけど、もの別れに終わって忸怩たる思いになっても「ひとそれぞれ」だから・・・というのもなぁ。。。いい結果になったらいいんだけどね。

だから、人の話に全く耳を傾けないのは全くもっていかん!と。
(なんとか表題にこぎつけたかな?)

ちょっと不完全燃焼かな。
by asami (2007-10-30 17:59) 

しの

> asamiさん

好き嫌いはあります。あります。わたしはある種の考え方をする人たちがどうしてもどうしても苦手で、そういう人たちを見ると頭から「こいつらは・・・」って偏見の固まりで見てしまいます。いけないんだけどねー。

井上ひさしがどこかでNHKが真に平等な報道機関となるためにはどうするべきかみたいなことを書いていたのを読んだことがあります。その中で、かれが人口の割合でこのくらいかなって感じで社会のいろんなセクトに時間を上げて、右翼も左翼も国粋主義も共産主義も自分達の思うままに作った番組を流せばいいんだっていっていたんです。一切の検閲はなしで。

わたしはそういうのっていいなーと思っています。わたしが嫌いな考え方やどうしても相容れない人たちというのはいます。でも、その人たちの言い分を頭から否定してしまうのではなく、みんながみんな平等(ってどうやって実現するかは難しいけど)に、自分の信じることについて自由に発言できれないいのにと思います。

ただ、そういうアイディアル・スピーチ・シチュエーション(ISS)って言うのはハーバーマスが提唱しているんだけど、実際にはそのISSを支えている理念がすべての思想の上に来てしまうから・・・それも問題っちゅえば問題ですよね。asamiさんのおっしゃるように物別れに終わってしまうことが多すぎると思うし。

まあ、でも、現実にはとにかく意見を言うこと話すこと聞くこと耳を傾けること・・・そういうのの繰り返しでしかないんだろうし。話を聞いてもらう、というときにロビー活動をする人もいれば、出版をする人、集会をする人、街頭宣伝カーは騒音公害だからやめてほしいと思うけど・・・。

それでも、自分の思ったことを口にしたら牢屋に突っ込まれで拷問を受けて殺されても当たり前の時代があったことを考えれば、世界は確かによくなっていると思うんです。

多様性を大事にしたいからこそ、そこに多くの共通点を抱えていることをわすれずに、排他的にならないでゆるやかな広がりを持つ許容性のある世界が来ればいいのにね。そういうのの前提として、人間の持つさまざまな条件や個性が固定されていて変わらないものだっていう考え方じゃなくて、人間個人そのものがゆらゆらと揺らぎを含んで他者との境界線というのは自分の体が示しているほど明確ではないって言う風に考えたいんです。自分を規定することをやめることからしか他者の受け入れははじまらないんじゃないか。自分が「○○だ」って主張するから、「あなたは○○」「あの人は○○じゃない」なんていう風に類型化をして固定化をしてしまうんじゃないか、と、思ったりしてるんです。

・・・ま、5年ほど真剣に考え続けて、そのあともだらだら考え続けてるんですが、いまだにはっきりとした結論なんてわかりっこないんですけどね。生きていくことでしか答えは見つからないのかな、なんて。
by しの (2007-10-31 05:39) 

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