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二人の関係 [ちょっとまじめに]


わたしは自分ではそれほどにも思わないのだけれど、ほかの人から、まあよくそこまでいろいろあるわね・・・といわれるような人生を送っているらしい。自分にとってはそれが日常になっているので、特にすごいとも思わないけど。そのときそのときの状況にできるように対応してきていただけで。一般的に言ってドラマの素材になりやすいわかりやすい「非日常」を経験してる、といえるのかもしれない。ただ、それは、わたしにとっては日常の一部だから、非日常にはなり得ないのだけれど。




その中で自分でもこれは厄介な経験をしたな・・・と思うことがある。いわゆる「精神的虐待」「性的虐待」と呼ばれる部分にまつわることだ。幸いなことに後者に関しては、それほど深い傷にはなっておらず、フラッシュバックがある程度。また、それらの経験の一部として持っていた、「ああ、今、あの車が突っ込んできて死ねたらいいな」というような「死亡願望」も、毎日のこととなると、これまた自分の日常の一部になって退屈な繰り返しに過ぎなくなる。




そういうわけで、フラッシュバックも死亡願望もうつ症状も完全に自分の日常となっていた。未来に希望もないので、特に何をしようとあせったりもしなくていい。自分の人生は、なんて考えることもない。日常的に傷つき続けているので傷の痛みも日常のものだ。死亡願望があるのだから、死ぬ瞬間にはやっと死ねるとうれしいだろう。




彼女と出会うまでは。




彼女とであって、今まで自分が置かれていた場所から抜け出すことができて、自由になったはいいが。傷の痛みは過去のものになり、わたしにとっての非日常になる。そして、自由になった分、自分の傷をえぐる地雷を踏んでしまうことも多い。この非日常の痛みはわたしをパニックに突き落とす。




うつ症状はほとんどなくなり、死亡願望もなくなった。




が、自分に自信がないこと、ことに愛されることに関しての自信のなさはどうしようもない。体を利用されることにまつわる傷も。また、愛されている自信に基づき、相手にさまざまなことを求める勇気がわたしには決定的に欠けている。




だから、彼女のほんのちょっとしたミスともいえない小さなことでわたしはいらだち、自信をなくし、求めるよりも先に手を放してしまおうとする。求めて与えられないつらさを経験するくらいなら、はじめから持っていないほうがいい、という最低のずるさだと思う。




それと同時に、わたしは自分がどれほど彼女を必要としているかをよくよく知っている。




それでも彼女を必要とする日常よりも、自分に戻ってきた非日常の痛みに恐れおののき、その痛みを二度と経験したくないと、彼女がいる日常がその非日常の痛みをもたらす原因なのだと、彼女を理不尽に責めてしまう。




ここしばらくはその繰り返しだった。




・・・と、ここまで書いて思うんだけど、よくくろすけはわたしに嫌気がささないものだ・・・。




わたしは、いつになったら痛み続けるため痛みに鈍感になった日常ではない、痛まない日常を自分のものとして受け入れられるのだろう。そして、その日常には非日常の痛みも時折入ってくることを。




そうなるためにはくろすけが必要なんだ、と思っている。


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