好きなように好きになる。 [好き]
わたしはくろすけを好きになるときに特に葛藤はなかった。
いや、あった・・・ことはあったんだけど。ほら、世間様に向けてとても「幸せな結婚」をしていたし、子供もいたし、猫もいたし・・・。そういう自分の生きている現実の倫理(?)のレベルでは悩んだ。
でも、好きになった。はじめてくろすけの書いたものを読んだときから。そのときは男か女かわからなくて、でもどっちでもよくて。
あったときには好きになっていた。
そのときに、自分のセクシュアリティーについて悩んだりとか、同性を好きになるなんて!とか、ぜんぜんなかった。つまり、倫理のレベルでは悩んだけど、セクシュアリティーのレベルでははっきりいって何にも悩まなかった。
別に、わたしにホモフォビアがまったくないと言ってるわけじゃない。でも、二人の間で暗黙の合意として、好きになったら同性だったけどそれがなんだっていうの?・・・という感じだった。
そのくらいはじめから好きだった。
くろすけにはじめて抱かれたとき、セックスというものがこれほどの幸福感をもたらしてくれるのだとはじめて知った。体だけではなく、心まで抱かれている。悦楽はもちろん肉体的なものなのだけれど。「わたしは誰である」ということから開放され、ただわたしであるからいいのだと、だから愛されているのだと、暖かな解放を感じた。
別に性行為がそこになくてもその暖かな解放を感じることができるのだけれど、性行為は一番それを直接に感じさせてくれるものかもしれない。自分を完全に相手にゆだね、抱かれ、そうすることでわたしもくろすけの一番深いところに触れる、抱く。
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くろすけがわたしの誕生日に送ってくれた二冊の本がある。その二冊目の本を読み始めた。R.P.FeynmanのWhat do you care what other people think?という本。その本のはじめのほうではじめの妻のアーリーンに触れている部分がある。
タイトルにもなっている「What do you care what other people think?」というのは、ファインアンが彼のはじめの妻であるアーリーンに教えた人生に対する姿勢で、その自分自身の言葉によってファインマンはアーリーンに翻弄されるんだけど。
それを語るファインマンの口調はとてもやさしく、彼がいかに彼女を愛していたのかがわかる。いや、愛しているという意識もないほど、彼女が自分の一部だったのだろうと思う。
多分、彼はアーリーンに会う前から彼女を愛していたのだと思う。出会うずっと前から。心の底で求めている人。自分がその人を好きになりたいと思うように好きになれる人。そしてその人に出会い、その人を得た幸せ。
今、ファインマンはルート66の横でアーリーンの買った炭火グリルでステーキを焼いている。
このあとの運命をすでに知っているわたしは読み進むべきかどうか迷っている。
迷いながら、くろすけに出会えた幸せを感じてる。