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言葉をつくす [ちょっとまじめに]

相手をわかりたいし、わかってほしいから、とにかく言葉にする。
自分が傷ついたことや、相手を傷つけたことを言語化するのに痛みが伴わないわけではない。
だけど離れていて、言葉でしか相手に触れることができない以上、わかり合おうという意思を持って僕たちは会話を重ねてきた。


少なくともいままでは、些細なすれ違いや、お互いの愛情に対する自信のなさからくるいろいろはそれで解決してきた。



今回は、少し違うみたいだと感じている。僕がしののことをどんなに好きでも解決できない。この言葉の先は、両親の涙や、打たれた頬の熱さや、友人からの否定、僕の手にお金を握らせていった祖父の言葉・・といった苦い記憶しか知らない。それでもとにかく、こうすることでしか状況はかわらないので。



まず、子供と大人の中間状態について、
自分を13歳に立ち返らせて、相手と同じ状況にあることを想像することはできる。だけど、そのときの感情は「13歳の僕」でしかなくて「一般的な13歳」の思考は僕の中にはない。物心ついたときには周りの大人と対等だと感じていて、それを認めてもらうにはいろいろな依存を断ち切らなくてはいけないと思っていた。


性的なことについて、
僕は性的なことについて悩んだことがない。違う問題が心を占めていたからだろうと思う。だから13歳の子供がどれだけ性的なことに頭を占められているのか僕にはわからない。



わかろうとしないからだとしのはいう。
どうして「普通」そうだということがわからないのか、と。
そういう考え方をするひとがいることはわかるし、しのがそういう考え方だということはわかる。
どちらが正しいとかではなくて、ただ、違う考え方があるだけだと思っている(あるいはそう思いたい)。
そういう考え方を前提としたしのの息子さんへの接し方を邪魔するつもりもない。
いままでだってしのが自分の国に残ることをサポートしてきたし、協力も惜しんでいない。


ただ、「過保護だ」とか「そんなのわかんないよ」とか「雑魚寝だっていいじゃん」というような感情を口にしているだけなのだけど、それはいけないことなんだろうか。
それをやめていままでと同じ関係が築けるんだろうか。


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こんな風に考えています。

濡れコブタさん、hikariさん、yuさん、coochinさん、コメントありがとうございます。そしてくろすけも。


わたしは12年間、ちょっと特殊な状況下に置かれた子供たちを教える仕事をしていました。担当していたのは11歳から13歳の子供たちです。その経験をもとに息子への接し方をいろいろと考えています。


13歳くらいの子供は、大人として扱って欲しい、自分の責任で持って自由な行動をさせて欲しいという欲求があると思います。そうすることでリスクがあることであると親としては、なかなか許せなくてコントロールしようとして、そこで親子の葛藤が生じてくるのだと思っています。


わたしの基本的スタンスは、子供が質問してくることには、恥ずかしがらずに答える、性的なことはオープンに話す、子供がしていることに対しては批判的にならずにとりあえず聞く、あたりでしょうか。そのため、息子はわたしに対して非常にオープンな関係を持ってくれています。たとえば、自分のブログを教えてくれるなど(プライベートモードに設定されているため、わたしは見ることができませんが、息子が自分でアクセスしているときに見せてくれます)、自分としてはなかなかいい関係だと思っています。


そういう風に息子がオープンでいてくれるので(初めてのキスはいつだなど、けっこう赤面ものの質問もありますが)、彼の選択についてもいろいろと話すことが多いです。


たとえば、スノーボードをしたい、と彼が言い出したとき、かかる費用について、危険性について、実際にレッスンはどんな感じであるのか、など彼がわかっているかを確かめます。わかっていない場合には、それについて情報を調べ二人でそれについて話し合います。そして、彼が自分の負うリスクについて気がついている場合、そしてそのリスクが修復可能であると思われる場合については、いいんじゃないの?と彼に決定権を渡しています。


今回の場合ですが、わたしが彼を守りたいと思うのは次のような理由によります。


まず、彼自身に選択権が与えられていないこと。彼はくろすけがわたしのパートナーであることについて発言権はありませんし、くろすけがわたしを訪ねてくることについても発言権はありません。


そして、彼自身がくろすけがわたしのところに来ている際に、今の環境のままで(つまり息子の完全にプライベートな空間がないままで)すごすことにどのようなリスクがあるのかについてはまったくの無知です。もちろん、わたしは息子がどのような反応をするかはまったくわかりません。


ですが、息子がくろすけという存在を知っている以上、そして、彼女に対してある種の親近感を覚えている以上、二人が会うことは悪いことだとは思えません。


しかし、息子は大人でもあります。完全な子供であれば、性的側面については悩まないと思います。不完全に大人であり、自分の性についてまだまだ良くわからない部分を抱えている人を、性的な部分においてトラウマを受けるかもしれないようなリスクにさらすわけには行かないのです。しかも、仮にトラウマを受けたとしたら、それがどのようなものになるのかや修復可能であるかについては予測不可能ですし、絶対に一生の傷にならないとはわたしには断言できません。また、そのリスクを負うことを息子が正確に把握していてそれに対して選択権を与えられていないわけですから。そして、わたしはトラウマが生じる状況をなるべく避けることができるし、くろすけもそれに協力をしてくれると思っていたのです。


これは、車の運転を許可することやスノーボードをさせることと同列視はできません。


大人か子供か、という二元論で人間の成長を語れればそれは簡単です。でも、そうではない。その中間があるのです。そこで、どの部分を守ってあげて、どの部分を息子の手にゆだねるかというのは非常に難しいものがあると思っています。そして、わたしは性的な部分に関しては非常に注意深くありたいのです。性教育は理論です。それは実践とはまったく違う。緩やかに理論面を充実させることに努め、乱暴な形でいきなり現実に向かい合わせたくない、というのは過保護なのでしょうか。そうすることでトラウマを受け、自分のセクシュアリティーや性欲を受け入れられなくなるような危険は冒したくないのです。


濡れコブタさんのおっしゃるとおり、息子がわたしのセクシュアリティーを受け入れることと、その生々しい現実を見てしまうことはまったく違う次元のものです。わたしとくろすけが仲良く楽しげにしているところに同席することと、わたしとくろすけが性的なことをしている気配を感じることは、同列に語れないとわたしは考えています。


だから、くろすけが来ている期間も息子は通常通りわたしのところに来る。でも、その際に彼の完全にプライベートな場所を確保をする。息子の前では性的なことを匂わせるような行動はとらない。そういう風に決めたのです。


 


決めたはいいけれど、現実的問題の解決にけっこう細かくいろいろ面倒くさいものがあり、いらいらとしていました。そして、そこでくろすけと小さな行き違いがありました。ショックだったのは、くろすけがわたしのこういうスタンスを大人vs子供という二元論の観点からしか見てくれなかったことがひとつです。また、わたしのこういう考えを理解してくれていると思っていて(それが思い込みだったのだと思います。だから、基本的には確かにこれはわたしの側のミステイクですね)、協力も快くしてくれると思っていたらそうではなかったこともショックでした。そして、受けるかもしれないショックに対して、それをけがなどのリスクと同列視して、そんなの受けても仕方がない、という態度でいたことも、やはり溝を感じてしまいました。


けっこういろいろな部分で自分たちの言葉を分かり合えていると思えていただけに、みっともなくうろたえるほどの事態を自分で引き起こし、くろすけを巻き込んだのかもしれません。


 


公開の場でこんなことをかいている意図について疑問をもたれる方もいるかと思います。最後にどうしてわたしが一連の記事をここにあげているのか(くろすけへのプライベートなメールという形ではなく)、少しだけ理由を書いておきたいと思います。


わたしは、14年の結婚のあと、くろすけと出会い、離婚に至りました。その際、自分のような環境にある人の経験を知りたかったのですが、なかなか見つけることができませんでした。それはかなり孤独な経験でした。誰かとまったく同じ経験をすることはありえないし、経験者の意見が常に正しいとも思いません。でも、同じような経験をしている人がいれば、その人の経験に照らし合わせて自分の経験を客観的に自分では持ちえなかった視点から見ることもできるし、そういう経験をしているのは自分だけではない、という自分自身の「位置」の確認もできると思います。


わたしは自分ひとりで自分の存在を認識できるほど強くはないのです。自分を比べられる誰かがいてはじめて自分は何かがわかるのではないかと思います。完全に一人で孤独な人間は自分の存在の意味を見出せるのでしょうか。そして、比べられる他者というのは「比べる」というその行為の意味そのものにおいて、自分と多くの共通点を持っている、という論理的前提がそこにあります。誰もバナナと日本を比べて日本の特徴を見つけはしません。日本と比べるのはほかの国であり、二つの国には多くの共通点があります(国民がいる、ある種の政治が行われている、国境がある、国土がある、社会生活がある、などなど)。そういう意味において、自分により似ている条件を備えている他者がいるというのは個人のアイデンティティーの形成に非常に大事なものだと思うのです。


離婚した後、子供を持って同性愛者となったひとの子育ての経験というのは、やはりなかなか語られていない分野かと思います。条件的に少数にならざるを得ないし。ですので、わたしがここで自分の息子について書くことが、わたしと同じような状況にある誰かの助けとなるのではないかと考えています。たいした経験ではないし、自分がしていることに絶対の自信もありません。自分の知識や経験を総動員して、これが一番いいのかな、と思える方向に進んでいるだけです。


そして、この記事を通じて同じような経験をしている誰かと知り合うことができればわたしにとってはとてもうれしいことだと思います。それがあえて、これを記事にした理由です。


もうひとつの理由は、プライベートなメールをかくよりも、こうして公開をした形で自分の気持ちを整理したほうがいい場合もあると思うのです。二人称ではいえないことも三人称になるととたんに語りやすくなり、視点も明確になる場合もあると思います。今回は、わたしはそういう場合であると判断しました。


以上、自分の考えを長々と書かせていただきました。


なんか、考え考え書いていますので、何度も付け足したり書き直したりしていて、文章もカチカチなのであれですが、お気軽にコメントくださればうれしいです。怖いですか? いえ、わたしは怖い人ではないし、噛み付いたりもしませんから。なんか、いらいらしているので冷静になろうとして、めちゃくちゃ文章が硬くなってるだけですので。


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息子さんと僕との関係

僕が前回しののところへ行ったとき、息子さんは毎週末しのの家に泊まりに来ていた。
僕の日程が決まってから、しのはだんなさんにその週末は息子さんをあずかれない、と言った。だんなさんは、週末は彼女が来るので息子さんをあずかってくれないと困る、と返事をしたらしい。
僕は、それはまずいんじゃないか、恋人が来るからあずかれないっていうのは、息子さんが親の愛情を疑ってしまうんじゃないのか、としのにいって、結局その週末は息子さんやらしのの友達やらを呼んでキャンプファイヤーをすることにしたことがある。しのはそのとき、僕はすごく自己中心的だけど、ちゃんと息子さんのこと考えてくれるんだ、と喜んでくれた。
(子供より恋人が大事なのは親として健全なあり方だと僕は思っている。ただ、それを子供に明示的には示さないほうがいい、とも思っている。)


僕は僕の視点でしか物事を見ることはできない。それは他のひとの立場に立つことを拒否しているわけではなくて、どんなにそのひとの立場に立ったつもりでもそれは自分の視点でしかないと思っているから。


それで、親とその恋人と雑魚寝をするっていうことについては、いくら考えても一生抱えるトラウマになるとは思えない。ただ、だからといって絶対雑魚寝をすべきだといっているわけではなくて、最悪それでいいじゃないか、という気持ち。


僕はしのの息子さんを自分の子供のようには扱えないし、子供扱いだってする気はない。一個の人間として、大好きなしのの子供として、僕も関係を大事にしたいとは思っているけど。
(大体、日本だったら春先から中学二年生で、子供だと思っているのは大人だけじゃないのか、とも思っている。そういうとしのは自分がそうだったから他の人もそうあれって思う僕が傲慢だというけど。)


 


 


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いま、メールは着信拒否にして、メッセンジャーも削除するっていわれているので、このブログだけが連絡手段だったりします・・・。お互いかっとなって書いている部分もあると思うので、不快になられたらすいませんでした・・・。


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もう、だめかもしれないです。

下の記事の続きなんだけど、くろすけは、なにがトラウマになるのかわからないのだから、そのわからない可能性のために何かをする必要はない、もしトラウマを息子が受けたとしてもそれは受けた本人がなんとかすべきだから自分は平気だといいました。


そういう風に息子を傷つけても平気だという人を息子と過ごさせるわけには行きません。だから、それならば来ないでくれとくろすけに言いました。


息子は選択権を一切持っていないのです。その不平等な立場に立たされた人間に対して、配慮というものをしない人はわたしは受け入れられません。息子には、くろすけには来て欲しくない、という権利は与えられていません。というか、与えるつもりはありません(この辺はわたしのわがままかもしれません)。


わたしは一人の人間として自分を幸せにしたいです。ただ、そのときになるべく平等でありたい。理想論としてそういっているのではありません。現実的にそれが不可能であることや不可知の部分が多いこともわかっています。だから、現実的に自分がなるべく平等であると考えるように具体的行動をしていきたいと思っています。


そして、それをくろすけがわかってくれていると、思っていました。


また、息子を優先するのかと聞くべきではない質問もされました。


息子は選択する余地を与えられていません。だからこそ、わたしは息子のためになるべく傷つかない環境をつくろうとしているだけです。それが「甘やかす」ことなのでしょうか?


わたしはどちらも大切にしたくて、それが両立できるようになんとか環境を整えようとしているだけなのに。


そういうわたしを、「甘やかしている」「息子を優先している」ということは、わたしにどちらかを選べといっていることだとくろすけにはわからないのでしょうか。そして、そもそもそういった選択ができるような贅沢さがわたしには許されていないことも。


このままでは別れるしかないのかもしれません。


どうしていいのか、わかりません。


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メルヘンの話。 [ちょっとまじめに]

わたしには息子がいる。今度13歳になる。健康な男子だ。


わたしには家がある。小さい家でプライバシーの保てる部屋はひとつしかなく、そこがわたしの部屋になっている。あとは、台所と居間、居間を通り抜けたところに風呂場と便所、屋根裏の階段を上がったところにオープンスペース、そこを通り抜けるとわたしの部屋。


息子は水曜日の夜に泊まりにくる。そして、週末の金曜に来て、日曜の昼に父親の家に行く。その間、息子は下の居間にあるソファーベッドで寝ている。わたしと過ごしているとき彼のプライバシーはない。


息子に会える距離にいるために、わたしはくろすけと一緒に暮らすことを先延ばしにしている。息子が18歳になったら、今いる町に住み続ける理由は一応なくなる。18歳になったらケツをけって独立させるつもりだ。


 


 


3月の末から2ヶ月、くろすけがこちらに来る。そのとき、今のこの状態で息子を置いておくわけにはいかないということが彼女にはわからない。


13歳の息子の前をトランクスにTシャツで歩き回るといってみたり、息子の部屋がないなら三人で一緒に寝ればいいといってみたりする。


それは、息子に対して不公平だし、だいたい、はじめてみる裸が自分の母親(父親でもいいが)の恋人だというのはトラウマになる可能性が高いから避けたほうがいいといっても、そんなのはわからない、としかいってくれない。


息子が泊まっているときにセックスをするときにはわたしが声を我慢すればいいのだ、という。


息子がもっと小さければ話は簡単だったかもしれないけれど、第二次性徴が始まっていて性に興味がある息子をいらぬトラウマから守りたいというのは、わたしのわがままなのだろうか。母親が自分の父親に抱かれる声を聞くのも子供にとっては難しいだろう。それが、自分とは血のつながりのない恋人に抱かれている声だとしたら深いトラウマになることがわからないという。


性欲が出てきて性に興味がでてきている息子の前を下着姿で歩き回り、彼の性欲を刺激することが楽しいのだろうか。楽しいはずはないだろう。では、なぜ、下着姿(トランクスは立派な下着だ)で歩くなどといえるのだろう。しないで、と何度も説明してもわからないと繰り替えずばかりで。


だから、息子のために小さい家なのに無駄に広い敷地にキャンプ用のキャラバンかログハウスを建てようと思った。とにかく息子のプライベートな部屋を作ることが一番簡単だろうと思った。くろすけに話しても、わからない、としかいってもらえないから、現実的にトラウマから守れる方法を取るしかないと。


でも、キャラバンもログハウスも両方とも問題点があり、そう簡単にどちらかとは決められない。いろいろと問題点が山積みになり、少し話を聞いてもらいたかった。


それだけだったのに。自分の問題点を整理するために話を聞いて欲しかっただけだ。


もしわからないなら、そういう事実があると受け入れて欲しかっただけだ。


くろすけはわたしと一緒にいたいだけで、それが本心だという。そんなのはわたしも一緒だ。


じゃあ、本心にだけ従って生きていけばいいの?


わたしにはそれはできない。わたしはくろすけと一緒にいたいけれど、同時に息子をいらぬトラウマからも守りたい。すでにわたしの離婚やカミングアウトで、本人は飄々としているけれどそれなりのトラウマを受けているであろう息子を。


くろすけに子供がいないことは知っている。だから、母親の気持ちを理解しろといっても現実感を持って一体感を持って共感をすることはできないかもしれない。でも、少なくとも、性欲が充満しつつある13歳の子供の視点から自分の親の恋人の下着姿を見て性欲が刺激されるということが笑える状況ではないことはわからないのだろうか。


わからないのかもしれない。世の中にはそれを笑い話としている漫画やドラマがたくさんあるから。


それなら、そういうことになるというわたしの言葉を事実として受け入れることもできないのか。わからないから、といってその状況にたいして苦しんでいるわたしを「わからないもの」としてそこで終わらせてしまうのか。理解させてくれといわれても、どう説明をすればいいのかわたしにだってわからない。ただ、自分の今までの経験(教えてたこととかいろいろ)で、そうなるという事実を知っているに過ぎないのに。


息子には、くろすけとわたしが性的関係にあることは話してあるし、女同士でどうするのだと聞かれたので指を使うんだ、ともはなしたことがある。


そういう話を聞くことと、実際にそれを目の当たりにしてしまうことは違うということがわからないのか。わからないのならば、目の当たりにすることがトラウマにつながるというわたしの言葉を事実として受け入れてくれることはできないのか。そして、わたしが息子を心配していることを受け入れて、わたしに協力をしてくれと望むことはわがままなのか。


自分はしのといたいだけだ。そういう本心に従って行動する、というのは美しい。美しすぎてメルヘンみたいだ。


でも、そのメルヘンゆえにわたしは自分の息子にトラウマを与えることはできない。


自分の本心に正直でいたい。それと同時に守るものを守りたい。だから、いろいろと手を打とうとしているのだけれど。現実問題としてそう簡単ではないから、あれこれと考えて悩まないといけないのだけれど。


そして、いろんな問題についてわからないからストレスがたまってるから話を聞いて欲しかっただけなのに。


それもこれも、くろすけと一緒にいたいからなのに。だから、いろんな現実問題を考えて、自分に見えていない問題があるかもきちんと考えて一番いい解決法を早く見つけようと思ってるのに。息子も傷つけないように。


本心にだけ従って美しく行動しないわたしが薄汚れた日和見主義者みたいに思えてきた。


なんだか、くろすけに息子のことを伝えようとしても、自分はわからない、と拒絶されるばっかりで、気がめいっているので、つらつらと思うままにかきました。不愉快に思われる方がいたら申し訳なく思います。子供を最優先すべきだという意見もあるかと思います。でも、わたしはくろすけと一緒にいたいのです。2ヶ月一緒にいれるというのはわたしにとって信じられないくらいうれしいことなのです。でも、息子もわたしにとっては大事なのです。両方を取ろうとすることがそもそもの間違いなのでしょうか。


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反省・・・

しのを無視したわけじゃないのですが・・
酒に飲まれてしまうのは僕の悪い癖です・・・。


とっても反省してます・・・。


結局、写真は送ってもらいました。
僕に甘いしの。
どうもありがとうv


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残念でした。 [業務連絡]

きょうはくろすけは家族とお出かけです。


それで、一人で閑なので、久しぶりにさりげなくエロ写真を撮ってみようと思いました。(閑だからするのか、って突っ込みはこの際ご勘弁を)。


くろすけに送ろうと思っていたのですが、帰ってきたら声もかけずに寝ちゃったみたいなので、送るのをやめました。酔ってただろうと思うけど、声くらいかけてくれてもよかったと思います。だいたい、くろすけは人を待たせても平気でこういう風に無視をするのは悪い癖です。



こんな写真だけど。送りません。
写真、モザイクかけました。(2月19日18時)


 


 


あーあ、また写真したいな~。
白黒写真の現像室の隠微な赤い光とか、現像液の匂いとか、浮かび上がってくる淡いフォルムとか。懐かしいな。


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薬品の匂い [追想]

しのはカーペットのしみを落とす洗剤の匂いで頭が痛いらしい。
そのメールを読みながら、会ったはじめのころにもたんすのショウノウにあたって体調を崩してたなー、なんて懐かしく思い出した。


しののもうひとつのブログで体調が悪いことを知って、お見舞いに行きましょうか?ってメールしたら、忙しいだろうから来なくていい、という返信があって、そのあとすぐに、やっぱり来て、って一行だけのメールが来た。来るなって云われても行くつもりだったけど、すごくうれしかったな。


お見舞いに行くと、「A列車で行こう」が流れていて、ショウノウは抜けたようだったけどかなり飲んでてさ。しのは自分やだんなさんや僕についてすごくネガティブな話をして(僕の将来についてはその前からネガティブだったけど・笑)、その暗闇も含めて僕はしのを抱きたいと思った。
僕が自分の感情に名前をつけられないでいるけどそれでいいんだ、とかさ。
翌日には忘れていたけど;。(いや、この理想論はたいてい隅に押しやられていたけれども)。


この夜のしのの喉の白さが印象に残っている。ベッドで、しのを省みたら苦しそうな表情でシーツを噛んでいて、苦しいんだろうか・・って不安になって、シーツを取り上げて声が聞こえるようにしたら、あえぎ声があふれてきたこととか。
あんまり呼吸が速いから、過呼吸になってるんじゃないかって心配して、酸素の供給を減らさなければ(笑)、って深くキスしたこととか。


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ブロッコリー [かなりふまじめ]

昔からブロッコリーがものすごく好きなの。


ブロッコリーを食べようと思って買ってきていたら、


くろすけもブロッコリーを買ってきた、と、


偶然に同じものを食べようとしているのに運命を感じたヨ。


 


これからもずっと一緒の運命だよネ。


キミのことがダイスキだヨ。



 


↓読んでくれ・・・

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切ない気持ち [追想]

くろすけと会い始めていたころ、わたしは自分が既婚者だっていうことに引け目というか後ろめたさを感じていて、だから、くろすけが好きだといってくれなくても仕方が無いと思っていた。わたしは自分がくろすけを好きになっていたことは知っていて、自分が結婚をしていることにものすごく混乱をしていた。


そのときの自分の精神状態や気持ちを思い返すとそれだけでものすごく苦しくなる。


会うべきではない、好きになるべきではない、という倫理的な「べき」論と、それでもくろすけにまっすぐに向かっている自分の気持ちにうそをつくこともできなくて。


少なくともくろすけもわたしを好きだといってくれれば、少し気持ちが安らぐかもしれなのに、くろすけは


「すきとか、愛してるとか、客観的に意味が定義できない言葉を口にしても、責任が負えないから」


といっていってくれなかった。それにもかかわらず、雨の中をバイクに乗ってずぶぬれになりながら毎晩会いに来ていた。その状況がつらくてつらくて。会うたびに大量にお酒を飲んではからんでいた。


悦楽を知らずに経済的安定と社会的地位とを供給されていた「安全地帯」にいた自分には戻れない、と暗澹たる気持ちになってしまっていた。せめて、その日の夜も会いに来てくれるというくろすけの言葉だけが、救いだったように思う。やっぱり、言わないだけでわたしのことが好きなんじゃないかって。


そうしたら。昼過ぎにメールが来た。


「ここ数日の雨で靴がぬれたのでいけません」


メールを開いたとき、重く胸が沈んでいくのを感じた。世間から隔絶された結婚相手の世界の中に閉じ込められて自分の結婚相手だけを絶対として体を求められることを愛情と同等視していたあの場所にいた自分には戻れないにもかかわらず、これから自分が向かって行きたい相手は約束をしていたのに靴がぬれたと来ない。


やっぱり、自分は性欲の対象とはなりえても愛情の対象とはなりえないのだ、と予定調和的に今までの自分の過去にこれからを重ねていた。


それに、その人に向かって、既婚者であるわたしが要求をしてはいけないだろう、と思った。要求をしても、わたしは結婚をしていて彼女を恋人にすることはできないのだから。わたしは彼女に対してなんの権利も持っていないのだから。


そんなことはわかっていたのに、結婚の安定だけでも確保すればよかったのに、いったいわたしはなにをしているんだろう、と自嘲した。でも、くろすけが好きで、それを抑えることも無視することもごまかすこともできずに。


その日、くろすけのブログに記事が上がった。雨も上がって、記事もあげられるのに、会いには来てくれないんだ。ははは。やっぱりね。うんうん。そんな気持ちでくろすけの記事を見ると、ファクシミリ/facimile、という英単語が読めなくて辞書で調べたら発音がわかった。人生は驚きで満ちている。と、明るく楽しげだ。


ああ、この人にとってはわたしのことなどどうでもいいんだ。わたしに会えないことなど、つらくもなく悲しくもなく、読めない英単語の発音がわかったことのほうが楽しいんだ。それで、そのうち、馬鹿な女がいて、おっぱいだけは大きくて、やり得だったと笑い話にされるのだろう。


そう思って、自嘲と怒りと自己嫌悪と絶望がない交ぜになって、仕返しをしてやろうという気持ちになった。どうせ、英語ができないんだからこんな単語は知らないだろうし読めないだろう。それで辞書で意味をひいて、がっくりすればいいんだ。


「じゃあ、d・・・・・・なんて単語は絶対に読めないね」


とコメントを残した。


翌日、わたしの体調は最悪で、わたしのブログの記事でそれを知ったくろすけは会いに来てくれた。メールでは楽しげに例の単語について冗談を書いていて。その楽しげな調子に、わたしはどんどん深く沈んでいった。


黄昏時、くろすけは来た。泣きはらした顔を見られたくなくて部屋を暗くしていた。だだっ広い部屋の中にくろすけは入ってきながら、


「コメント見てさ、単語が読めなくて、辞書で意味引いたら○○って意味でさ・・・」


と笑いながらわたしを抱きしめて


「ああ、もう、愛してるって思ったよ」


・・・信じられなくてくろすけの顔をじっと見た。くろすけは、自分でも思ってもいなかったのにそんな言葉が出てしまって、うろたえていた。あんなに客観的に定義できない言葉は使えないといっていたのに、そして言葉に対して常に注意深くコントロールをしてきたくろすけだったのに、あの瞬間、ぽろっと言葉がこぼれてしまって。


 


*****************


今になって書いているので、なんとなく自分の気持ちが整理されてるけど、そのときはもうめちゃくちゃでした。なんにもわからなくなっていて、くろすけが好きということだけがわかっていて、その情けない17歳のおばかさんのような自分にあきれて、大人の分別を無理やりつけようとしたり。


くろすけは誠実な人です。だから、彼女の誠実さを信じていればよかったのに、それが信じられないばかりにたくさんひどいことを言ったなあ、と今になって反省しています。まあ、あのとき、そんな風に人の誠実さを信じられるくらい冷静であれたなら、自分の結婚の欺瞞にだって気がついていたと思うけど。そんなに賢い人じゃないので、ああいう風にじたばたとかっこ悪くいろいろ紆余曲折で泥沼をぼちゃぼちゃ歩いて、なんとか今の場所にたどり着けたからいいとしましょう。


でも、くろすけの誠実を信じていられれば、あの時あんな単語を書かなかったのに、とも思います。いまだにくろすけが愛しているといってくれるたびに、その単語が条件反射として脳裏に浮かんできてしまうという悲劇からわたしはいつになれば解放されるのでしょう。


自分で書いて読み返しても、なんだか感動のいい話なのに(わはは、自分で言うなって)、あの単語のせいで、あの単語のせいで・・・。ううう・・・。


書くことでそのころのことを整理したく思いました。長々と思い出話に付き合っていただいてありがとうございました。


 


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