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切ない気持ち [追想]

くろすけと会い始めていたころ、わたしは自分が既婚者だっていうことに引け目というか後ろめたさを感じていて、だから、くろすけが好きだといってくれなくても仕方が無いと思っていた。わたしは自分がくろすけを好きになっていたことは知っていて、自分が結婚をしていることにものすごく混乱をしていた。


そのときの自分の精神状態や気持ちを思い返すとそれだけでものすごく苦しくなる。


会うべきではない、好きになるべきではない、という倫理的な「べき」論と、それでもくろすけにまっすぐに向かっている自分の気持ちにうそをつくこともできなくて。


少なくともくろすけもわたしを好きだといってくれれば、少し気持ちが安らぐかもしれなのに、くろすけは


「すきとか、愛してるとか、客観的に意味が定義できない言葉を口にしても、責任が負えないから」


といっていってくれなかった。それにもかかわらず、雨の中をバイクに乗ってずぶぬれになりながら毎晩会いに来ていた。その状況がつらくてつらくて。会うたびに大量にお酒を飲んではからんでいた。


悦楽を知らずに経済的安定と社会的地位とを供給されていた「安全地帯」にいた自分には戻れない、と暗澹たる気持ちになってしまっていた。せめて、その日の夜も会いに来てくれるというくろすけの言葉だけが、救いだったように思う。やっぱり、言わないだけでわたしのことが好きなんじゃないかって。


そうしたら。昼過ぎにメールが来た。


「ここ数日の雨で靴がぬれたのでいけません」


メールを開いたとき、重く胸が沈んでいくのを感じた。世間から隔絶された結婚相手の世界の中に閉じ込められて自分の結婚相手だけを絶対として体を求められることを愛情と同等視していたあの場所にいた自分には戻れないにもかかわらず、これから自分が向かって行きたい相手は約束をしていたのに靴がぬれたと来ない。


やっぱり、自分は性欲の対象とはなりえても愛情の対象とはなりえないのだ、と予定調和的に今までの自分の過去にこれからを重ねていた。


それに、その人に向かって、既婚者であるわたしが要求をしてはいけないだろう、と思った。要求をしても、わたしは結婚をしていて彼女を恋人にすることはできないのだから。わたしは彼女に対してなんの権利も持っていないのだから。


そんなことはわかっていたのに、結婚の安定だけでも確保すればよかったのに、いったいわたしはなにをしているんだろう、と自嘲した。でも、くろすけが好きで、それを抑えることも無視することもごまかすこともできずに。


その日、くろすけのブログに記事が上がった。雨も上がって、記事もあげられるのに、会いには来てくれないんだ。ははは。やっぱりね。うんうん。そんな気持ちでくろすけの記事を見ると、ファクシミリ/facimile、という英単語が読めなくて辞書で調べたら発音がわかった。人生は驚きで満ちている。と、明るく楽しげだ。


ああ、この人にとってはわたしのことなどどうでもいいんだ。わたしに会えないことなど、つらくもなく悲しくもなく、読めない英単語の発音がわかったことのほうが楽しいんだ。それで、そのうち、馬鹿な女がいて、おっぱいだけは大きくて、やり得だったと笑い話にされるのだろう。


そう思って、自嘲と怒りと自己嫌悪と絶望がない交ぜになって、仕返しをしてやろうという気持ちになった。どうせ、英語ができないんだからこんな単語は知らないだろうし読めないだろう。それで辞書で意味をひいて、がっくりすればいいんだ。


「じゃあ、d・・・・・・なんて単語は絶対に読めないね」


とコメントを残した。


翌日、わたしの体調は最悪で、わたしのブログの記事でそれを知ったくろすけは会いに来てくれた。メールでは楽しげに例の単語について冗談を書いていて。その楽しげな調子に、わたしはどんどん深く沈んでいった。


黄昏時、くろすけは来た。泣きはらした顔を見られたくなくて部屋を暗くしていた。だだっ広い部屋の中にくろすけは入ってきながら、


「コメント見てさ、単語が読めなくて、辞書で意味引いたら○○って意味でさ・・・」


と笑いながらわたしを抱きしめて


「ああ、もう、愛してるって思ったよ」


・・・信じられなくてくろすけの顔をじっと見た。くろすけは、自分でも思ってもいなかったのにそんな言葉が出てしまって、うろたえていた。あんなに客観的に定義できない言葉は使えないといっていたのに、そして言葉に対して常に注意深くコントロールをしてきたくろすけだったのに、あの瞬間、ぽろっと言葉がこぼれてしまって。


 


*****************


今になって書いているので、なんとなく自分の気持ちが整理されてるけど、そのときはもうめちゃくちゃでした。なんにもわからなくなっていて、くろすけが好きということだけがわかっていて、その情けない17歳のおばかさんのような自分にあきれて、大人の分別を無理やりつけようとしたり。


くろすけは誠実な人です。だから、彼女の誠実さを信じていればよかったのに、それが信じられないばかりにたくさんひどいことを言ったなあ、と今になって反省しています。まあ、あのとき、そんな風に人の誠実さを信じられるくらい冷静であれたなら、自分の結婚の欺瞞にだって気がついていたと思うけど。そんなに賢い人じゃないので、ああいう風にじたばたとかっこ悪くいろいろ紆余曲折で泥沼をぼちゃぼちゃ歩いて、なんとか今の場所にたどり着けたからいいとしましょう。


でも、くろすけの誠実を信じていられれば、あの時あんな単語を書かなかったのに、とも思います。いまだにくろすけが愛しているといってくれるたびに、その単語が条件反射として脳裏に浮かんできてしまうという悲劇からわたしはいつになれば解放されるのでしょう。


自分で書いて読み返しても、なんだか感動のいい話なのに(わはは、自分で言うなって)、あの単語のせいで、あの単語のせいで・・・。ううう・・・。


書くことでそのころのことを整理したく思いました。長々と思い出話に付き合っていただいてありがとうございました。


 


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