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もう、だめかもしれないです。

下の記事の続きなんだけど、くろすけは、なにがトラウマになるのかわからないのだから、そのわからない可能性のために何かをする必要はない、もしトラウマを息子が受けたとしてもそれは受けた本人がなんとかすべきだから自分は平気だといいました。


そういう風に息子を傷つけても平気だという人を息子と過ごさせるわけには行きません。だから、それならば来ないでくれとくろすけに言いました。


息子は選択権を一切持っていないのです。その不平等な立場に立たされた人間に対して、配慮というものをしない人はわたしは受け入れられません。息子には、くろすけには来て欲しくない、という権利は与えられていません。というか、与えるつもりはありません(この辺はわたしのわがままかもしれません)。


わたしは一人の人間として自分を幸せにしたいです。ただ、そのときになるべく平等でありたい。理想論としてそういっているのではありません。現実的にそれが不可能であることや不可知の部分が多いこともわかっています。だから、現実的に自分がなるべく平等であると考えるように具体的行動をしていきたいと思っています。


そして、それをくろすけがわかってくれていると、思っていました。


また、息子を優先するのかと聞くべきではない質問もされました。


息子は選択する余地を与えられていません。だからこそ、わたしは息子のためになるべく傷つかない環境をつくろうとしているだけです。それが「甘やかす」ことなのでしょうか?


わたしはどちらも大切にしたくて、それが両立できるようになんとか環境を整えようとしているだけなのに。


そういうわたしを、「甘やかしている」「息子を優先している」ということは、わたしにどちらかを選べといっていることだとくろすけにはわからないのでしょうか。そして、そもそもそういった選択ができるような贅沢さがわたしには許されていないことも。


このままでは別れるしかないのかもしれません。


どうしていいのか、わかりません。


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メルヘンの話。 [ちょっとまじめに]

わたしには息子がいる。今度13歳になる。健康な男子だ。


わたしには家がある。小さい家でプライバシーの保てる部屋はひとつしかなく、そこがわたしの部屋になっている。あとは、台所と居間、居間を通り抜けたところに風呂場と便所、屋根裏の階段を上がったところにオープンスペース、そこを通り抜けるとわたしの部屋。


息子は水曜日の夜に泊まりにくる。そして、週末の金曜に来て、日曜の昼に父親の家に行く。その間、息子は下の居間にあるソファーベッドで寝ている。わたしと過ごしているとき彼のプライバシーはない。


息子に会える距離にいるために、わたしはくろすけと一緒に暮らすことを先延ばしにしている。息子が18歳になったら、今いる町に住み続ける理由は一応なくなる。18歳になったらケツをけって独立させるつもりだ。


 


 


3月の末から2ヶ月、くろすけがこちらに来る。そのとき、今のこの状態で息子を置いておくわけにはいかないということが彼女にはわからない。


13歳の息子の前をトランクスにTシャツで歩き回るといってみたり、息子の部屋がないなら三人で一緒に寝ればいいといってみたりする。


それは、息子に対して不公平だし、だいたい、はじめてみる裸が自分の母親(父親でもいいが)の恋人だというのはトラウマになる可能性が高いから避けたほうがいいといっても、そんなのはわからない、としかいってくれない。


息子が泊まっているときにセックスをするときにはわたしが声を我慢すればいいのだ、という。


息子がもっと小さければ話は簡単だったかもしれないけれど、第二次性徴が始まっていて性に興味がある息子をいらぬトラウマから守りたいというのは、わたしのわがままなのだろうか。母親が自分の父親に抱かれる声を聞くのも子供にとっては難しいだろう。それが、自分とは血のつながりのない恋人に抱かれている声だとしたら深いトラウマになることがわからないという。


性欲が出てきて性に興味がでてきている息子の前を下着姿で歩き回り、彼の性欲を刺激することが楽しいのだろうか。楽しいはずはないだろう。では、なぜ、下着姿(トランクスは立派な下着だ)で歩くなどといえるのだろう。しないで、と何度も説明してもわからないと繰り替えずばかりで。


だから、息子のために小さい家なのに無駄に広い敷地にキャンプ用のキャラバンかログハウスを建てようと思った。とにかく息子のプライベートな部屋を作ることが一番簡単だろうと思った。くろすけに話しても、わからない、としかいってもらえないから、現実的にトラウマから守れる方法を取るしかないと。


でも、キャラバンもログハウスも両方とも問題点があり、そう簡単にどちらかとは決められない。いろいろと問題点が山積みになり、少し話を聞いてもらいたかった。


それだけだったのに。自分の問題点を整理するために話を聞いて欲しかっただけだ。


もしわからないなら、そういう事実があると受け入れて欲しかっただけだ。


くろすけはわたしと一緒にいたいだけで、それが本心だという。そんなのはわたしも一緒だ。


じゃあ、本心にだけ従って生きていけばいいの?


わたしにはそれはできない。わたしはくろすけと一緒にいたいけれど、同時に息子をいらぬトラウマからも守りたい。すでにわたしの離婚やカミングアウトで、本人は飄々としているけれどそれなりのトラウマを受けているであろう息子を。


くろすけに子供がいないことは知っている。だから、母親の気持ちを理解しろといっても現実感を持って一体感を持って共感をすることはできないかもしれない。でも、少なくとも、性欲が充満しつつある13歳の子供の視点から自分の親の恋人の下着姿を見て性欲が刺激されるということが笑える状況ではないことはわからないのだろうか。


わからないのかもしれない。世の中にはそれを笑い話としている漫画やドラマがたくさんあるから。


それなら、そういうことになるというわたしの言葉を事実として受け入れることもできないのか。わからないから、といってその状況にたいして苦しんでいるわたしを「わからないもの」としてそこで終わらせてしまうのか。理解させてくれといわれても、どう説明をすればいいのかわたしにだってわからない。ただ、自分の今までの経験(教えてたこととかいろいろ)で、そうなるという事実を知っているに過ぎないのに。


息子には、くろすけとわたしが性的関係にあることは話してあるし、女同士でどうするのだと聞かれたので指を使うんだ、ともはなしたことがある。


そういう話を聞くことと、実際にそれを目の当たりにしてしまうことは違うということがわからないのか。わからないのならば、目の当たりにすることがトラウマにつながるというわたしの言葉を事実として受け入れてくれることはできないのか。そして、わたしが息子を心配していることを受け入れて、わたしに協力をしてくれと望むことはわがままなのか。


自分はしのといたいだけだ。そういう本心に従って行動する、というのは美しい。美しすぎてメルヘンみたいだ。


でも、そのメルヘンゆえにわたしは自分の息子にトラウマを与えることはできない。


自分の本心に正直でいたい。それと同時に守るものを守りたい。だから、いろいろと手を打とうとしているのだけれど。現実問題としてそう簡単ではないから、あれこれと考えて悩まないといけないのだけれど。


そして、いろんな問題についてわからないからストレスがたまってるから話を聞いて欲しかっただけなのに。


それもこれも、くろすけと一緒にいたいからなのに。だから、いろんな現実問題を考えて、自分に見えていない問題があるかもきちんと考えて一番いい解決法を早く見つけようと思ってるのに。息子も傷つけないように。


本心にだけ従って美しく行動しないわたしが薄汚れた日和見主義者みたいに思えてきた。


なんだか、くろすけに息子のことを伝えようとしても、自分はわからない、と拒絶されるばっかりで、気がめいっているので、つらつらと思うままにかきました。不愉快に思われる方がいたら申し訳なく思います。子供を最優先すべきだという意見もあるかと思います。でも、わたしはくろすけと一緒にいたいのです。2ヶ月一緒にいれるというのはわたしにとって信じられないくらいうれしいことなのです。でも、息子もわたしにとっては大事なのです。両方を取ろうとすることがそもそもの間違いなのでしょうか。


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