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選択しない。

くろすけがかいた


子供より恋人が大事なのは親として健全なあり方だと僕は思っている。


という一文が波紋を呼んでいるようです。


そのことについてわたしの考え方を書いておきたいと思います。


まず、子供と恋人を比べるということ(どちらが大事、という発言そのものは二つを比べているからでてくるものです)が間違っていると思います。


前の記事にも書きましたが、比べるということはその比べられる二つのものを「同等のもの」と見ているから比べるのです。つまり、恋人か子供かどちらが大事が、という設問そのものが子供と恋人を同等視しており、その根底において間違っているとわたしは思います。


子供に対する態度で、「この子はわたしのベイビーちゃんよ」「子供が恋人なの」という子供を私物化する発言はどうかとわたしは思ってきました。子供は子供でありわたしとはまったく違った人格だし、ましてやわたしのものではありません。わたしは子供に対してその子供時代(=自分の速度で大人になる時期)を確保してあげる義務があると思います。そして、自分の子供が大人になり自我とアイデンティティーの形成と経済的独立に自分の責任で向かっていけるようになった際に、捨てられる覚悟をするべきであると考えています。


それに対して、恋人は、もちろん独立した人格ではありますが、その人の存在が自分のアイデンティティーの一部となるような存在であり、それゆえわたしというものを語るのに欠かせない部分となるので、わたしのものという私物化が許されるのではないかと思います。もちろん、その私物化が許される背景には、相手が確固とした自我を持っていて私物化されたところでそれが揺るいだりしないことを前提としています。そして、恋人は大人としてわたしの前に現れるので、その成長を守る必要もないでしょう。また、きっぱりと捨てられる覚悟なんてしません。


ですから、わたしにとっては子供と恋人を比べてどちらが大事かなんて聞かれても、その設問自体に意味がないとしかいえません。そして、世の中の悪しきことの多くはこのような本来であれば比較対象でなかったものを比較し選ばせることから生じているのではないかと思っています。


わたしには息子もくろすけも大事です。どちらを選ぶということはできません。猫だって大事です(珍しく完全に自分に依存している存在)。


ここまでが理想論。


でも、現実には、恋人と子供をいかに同時に扱うかという問題があると思います。なんてったってわたしは一人しかいないので、どういう風に選択できない二人の個人に接するかというのは、時間配分や自分の住所の設定など多くの妥協を必要としていると思います。


そして、いま、妥協する、ということが選択をしないと決めた段階で大事なのかな、と思っています。そして、その妥協は子供ではなく、わたしのものでありわたしの一部である恋人にお願いするという甘えが許されるといいな、と。


そして、その甘えが許されなかった場合、自分にとってはもっとも好ましくない選択を迫られる可能性があるな、と。


…わがままですか?


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言葉をつくす [ちょっとまじめに]

相手をわかりたいし、わかってほしいから、とにかく言葉にする。
自分が傷ついたことや、相手を傷つけたことを言語化するのに痛みが伴わないわけではない。
だけど離れていて、言葉でしか相手に触れることができない以上、わかり合おうという意思を持って僕たちは会話を重ねてきた。


少なくともいままでは、些細なすれ違いや、お互いの愛情に対する自信のなさからくるいろいろはそれで解決してきた。



今回は、少し違うみたいだと感じている。僕がしののことをどんなに好きでも解決できない。この言葉の先は、両親の涙や、打たれた頬の熱さや、友人からの否定、僕の手にお金を握らせていった祖父の言葉・・といった苦い記憶しか知らない。それでもとにかく、こうすることでしか状況はかわらないので。



まず、子供と大人の中間状態について、
自分を13歳に立ち返らせて、相手と同じ状況にあることを想像することはできる。だけど、そのときの感情は「13歳の僕」でしかなくて「一般的な13歳」の思考は僕の中にはない。物心ついたときには周りの大人と対等だと感じていて、それを認めてもらうにはいろいろな依存を断ち切らなくてはいけないと思っていた。


性的なことについて、
僕は性的なことについて悩んだことがない。違う問題が心を占めていたからだろうと思う。だから13歳の子供がどれだけ性的なことに頭を占められているのか僕にはわからない。



わかろうとしないからだとしのはいう。
どうして「普通」そうだということがわからないのか、と。
そういう考え方をするひとがいることはわかるし、しのがそういう考え方だということはわかる。
どちらが正しいとかではなくて、ただ、違う考え方があるだけだと思っている(あるいはそう思いたい)。
そういう考え方を前提としたしのの息子さんへの接し方を邪魔するつもりもない。
いままでだってしのが自分の国に残ることをサポートしてきたし、協力も惜しんでいない。


ただ、「過保護だ」とか「そんなのわかんないよ」とか「雑魚寝だっていいじゃん」というような感情を口にしているだけなのだけど、それはいけないことなんだろうか。
それをやめていままでと同じ関係が築けるんだろうか。


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こんな風に考えています。

濡れコブタさん、hikariさん、yuさん、coochinさん、コメントありがとうございます。そしてくろすけも。


わたしは12年間、ちょっと特殊な状況下に置かれた子供たちを教える仕事をしていました。担当していたのは11歳から13歳の子供たちです。その経験をもとに息子への接し方をいろいろと考えています。


13歳くらいの子供は、大人として扱って欲しい、自分の責任で持って自由な行動をさせて欲しいという欲求があると思います。そうすることでリスクがあることであると親としては、なかなか許せなくてコントロールしようとして、そこで親子の葛藤が生じてくるのだと思っています。


わたしの基本的スタンスは、子供が質問してくることには、恥ずかしがらずに答える、性的なことはオープンに話す、子供がしていることに対しては批判的にならずにとりあえず聞く、あたりでしょうか。そのため、息子はわたしに対して非常にオープンな関係を持ってくれています。たとえば、自分のブログを教えてくれるなど(プライベートモードに設定されているため、わたしは見ることができませんが、息子が自分でアクセスしているときに見せてくれます)、自分としてはなかなかいい関係だと思っています。


そういう風に息子がオープンでいてくれるので(初めてのキスはいつだなど、けっこう赤面ものの質問もありますが)、彼の選択についてもいろいろと話すことが多いです。


たとえば、スノーボードをしたい、と彼が言い出したとき、かかる費用について、危険性について、実際にレッスンはどんな感じであるのか、など彼がわかっているかを確かめます。わかっていない場合には、それについて情報を調べ二人でそれについて話し合います。そして、彼が自分の負うリスクについて気がついている場合、そしてそのリスクが修復可能であると思われる場合については、いいんじゃないの?と彼に決定権を渡しています。


今回の場合ですが、わたしが彼を守りたいと思うのは次のような理由によります。


まず、彼自身に選択権が与えられていないこと。彼はくろすけがわたしのパートナーであることについて発言権はありませんし、くろすけがわたしを訪ねてくることについても発言権はありません。


そして、彼自身がくろすけがわたしのところに来ている際に、今の環境のままで(つまり息子の完全にプライベートな空間がないままで)すごすことにどのようなリスクがあるのかについてはまったくの無知です。もちろん、わたしは息子がどのような反応をするかはまったくわかりません。


ですが、息子がくろすけという存在を知っている以上、そして、彼女に対してある種の親近感を覚えている以上、二人が会うことは悪いことだとは思えません。


しかし、息子は大人でもあります。完全な子供であれば、性的側面については悩まないと思います。不完全に大人であり、自分の性についてまだまだ良くわからない部分を抱えている人を、性的な部分においてトラウマを受けるかもしれないようなリスクにさらすわけには行かないのです。しかも、仮にトラウマを受けたとしたら、それがどのようなものになるのかや修復可能であるかについては予測不可能ですし、絶対に一生の傷にならないとはわたしには断言できません。また、そのリスクを負うことを息子が正確に把握していてそれに対して選択権を与えられていないわけですから。そして、わたしはトラウマが生じる状況をなるべく避けることができるし、くろすけもそれに協力をしてくれると思っていたのです。


これは、車の運転を許可することやスノーボードをさせることと同列視はできません。


大人か子供か、という二元論で人間の成長を語れればそれは簡単です。でも、そうではない。その中間があるのです。そこで、どの部分を守ってあげて、どの部分を息子の手にゆだねるかというのは非常に難しいものがあると思っています。そして、わたしは性的な部分に関しては非常に注意深くありたいのです。性教育は理論です。それは実践とはまったく違う。緩やかに理論面を充実させることに努め、乱暴な形でいきなり現実に向かい合わせたくない、というのは過保護なのでしょうか。そうすることでトラウマを受け、自分のセクシュアリティーや性欲を受け入れられなくなるような危険は冒したくないのです。


濡れコブタさんのおっしゃるとおり、息子がわたしのセクシュアリティーを受け入れることと、その生々しい現実を見てしまうことはまったく違う次元のものです。わたしとくろすけが仲良く楽しげにしているところに同席することと、わたしとくろすけが性的なことをしている気配を感じることは、同列に語れないとわたしは考えています。


だから、くろすけが来ている期間も息子は通常通りわたしのところに来る。でも、その際に彼の完全にプライベートな場所を確保をする。息子の前では性的なことを匂わせるような行動はとらない。そういう風に決めたのです。


 


決めたはいいけれど、現実的問題の解決にけっこう細かくいろいろ面倒くさいものがあり、いらいらとしていました。そして、そこでくろすけと小さな行き違いがありました。ショックだったのは、くろすけがわたしのこういうスタンスを大人vs子供という二元論の観点からしか見てくれなかったことがひとつです。また、わたしのこういう考えを理解してくれていると思っていて(それが思い込みだったのだと思います。だから、基本的には確かにこれはわたしの側のミステイクですね)、協力も快くしてくれると思っていたらそうではなかったこともショックでした。そして、受けるかもしれないショックに対して、それをけがなどのリスクと同列視して、そんなの受けても仕方がない、という態度でいたことも、やはり溝を感じてしまいました。


けっこういろいろな部分で自分たちの言葉を分かり合えていると思えていただけに、みっともなくうろたえるほどの事態を自分で引き起こし、くろすけを巻き込んだのかもしれません。


 


公開の場でこんなことをかいている意図について疑問をもたれる方もいるかと思います。最後にどうしてわたしが一連の記事をここにあげているのか(くろすけへのプライベートなメールという形ではなく)、少しだけ理由を書いておきたいと思います。


わたしは、14年の結婚のあと、くろすけと出会い、離婚に至りました。その際、自分のような環境にある人の経験を知りたかったのですが、なかなか見つけることができませんでした。それはかなり孤独な経験でした。誰かとまったく同じ経験をすることはありえないし、経験者の意見が常に正しいとも思いません。でも、同じような経験をしている人がいれば、その人の経験に照らし合わせて自分の経験を客観的に自分では持ちえなかった視点から見ることもできるし、そういう経験をしているのは自分だけではない、という自分自身の「位置」の確認もできると思います。


わたしは自分ひとりで自分の存在を認識できるほど強くはないのです。自分を比べられる誰かがいてはじめて自分は何かがわかるのではないかと思います。完全に一人で孤独な人間は自分の存在の意味を見出せるのでしょうか。そして、比べられる他者というのは「比べる」というその行為の意味そのものにおいて、自分と多くの共通点を持っている、という論理的前提がそこにあります。誰もバナナと日本を比べて日本の特徴を見つけはしません。日本と比べるのはほかの国であり、二つの国には多くの共通点があります(国民がいる、ある種の政治が行われている、国境がある、国土がある、社会生活がある、などなど)。そういう意味において、自分により似ている条件を備えている他者がいるというのは個人のアイデンティティーの形成に非常に大事なものだと思うのです。


離婚した後、子供を持って同性愛者となったひとの子育ての経験というのは、やはりなかなか語られていない分野かと思います。条件的に少数にならざるを得ないし。ですので、わたしがここで自分の息子について書くことが、わたしと同じような状況にある誰かの助けとなるのではないかと考えています。たいした経験ではないし、自分がしていることに絶対の自信もありません。自分の知識や経験を総動員して、これが一番いいのかな、と思える方向に進んでいるだけです。


そして、この記事を通じて同じような経験をしている誰かと知り合うことができればわたしにとってはとてもうれしいことだと思います。それがあえて、これを記事にした理由です。


もうひとつの理由は、プライベートなメールをかくよりも、こうして公開をした形で自分の気持ちを整理したほうがいい場合もあると思うのです。二人称ではいえないことも三人称になるととたんに語りやすくなり、視点も明確になる場合もあると思います。今回は、わたしはそういう場合であると判断しました。


以上、自分の考えを長々と書かせていただきました。


なんか、考え考え書いていますので、何度も付け足したり書き直したりしていて、文章もカチカチなのであれですが、お気軽にコメントくださればうれしいです。怖いですか? いえ、わたしは怖い人ではないし、噛み付いたりもしませんから。なんか、いらいらしているので冷静になろうとして、めちゃくちゃ文章が硬くなってるだけですので。


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息子さんと僕との関係

僕が前回しののところへ行ったとき、息子さんは毎週末しのの家に泊まりに来ていた。
僕の日程が決まってから、しのはだんなさんにその週末は息子さんをあずかれない、と言った。だんなさんは、週末は彼女が来るので息子さんをあずかってくれないと困る、と返事をしたらしい。
僕は、それはまずいんじゃないか、恋人が来るからあずかれないっていうのは、息子さんが親の愛情を疑ってしまうんじゃないのか、としのにいって、結局その週末は息子さんやらしのの友達やらを呼んでキャンプファイヤーをすることにしたことがある。しのはそのとき、僕はすごく自己中心的だけど、ちゃんと息子さんのこと考えてくれるんだ、と喜んでくれた。
(子供より恋人が大事なのは親として健全なあり方だと僕は思っている。ただ、それを子供に明示的には示さないほうがいい、とも思っている。)


僕は僕の視点でしか物事を見ることはできない。それは他のひとの立場に立つことを拒否しているわけではなくて、どんなにそのひとの立場に立ったつもりでもそれは自分の視点でしかないと思っているから。


それで、親とその恋人と雑魚寝をするっていうことについては、いくら考えても一生抱えるトラウマになるとは思えない。ただ、だからといって絶対雑魚寝をすべきだといっているわけではなくて、最悪それでいいじゃないか、という気持ち。


僕はしのの息子さんを自分の子供のようには扱えないし、子供扱いだってする気はない。一個の人間として、大好きなしのの子供として、僕も関係を大事にしたいとは思っているけど。
(大体、日本だったら春先から中学二年生で、子供だと思っているのは大人だけじゃないのか、とも思っている。そういうとしのは自分がそうだったから他の人もそうあれって思う僕が傲慢だというけど。)


 


 


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いま、メールは着信拒否にして、メッセンジャーも削除するっていわれているので、このブログだけが連絡手段だったりします・・・。お互いかっとなって書いている部分もあると思うので、不快になられたらすいませんでした・・・。


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