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少しずつ前に [ちょっとまじめに]

くろすけと2ヶ月一緒にいて本当によかったです。わたし達のことですから、なにをしたわけではありません。最後になってちょっとあわてて砂丘に行ったり、農場で子羊に授乳をしたりとちょっと忙しくしていました。


そのわりには、炭火焼き鳥は3回もしています(笑)。


そういう目に見えることもありますが、目に見えないこともありました。


一番大きなことはわたしの内側だと思います。


以前は(くろすけが時折記事にしていましたが)、理不尽にくろすけを責めることがとても多かったです。


呪いのように自分の一番近くにいた二人から繰り返し聞かされた「あなたなんて誰も愛さない。自分だけがあなたみたいな人を愛せるんだ」という言葉がわたしの一番深いところに常にあったからだと思います。そういいながらもその二人はわたしに「都合のいい存在」であることを求めていただけだったりもして。だから、常に自分ではなく、相手が求める都合のいい自分であろうとわけの分からない努力をしていました。

くろすけが本当にわたしがどんな人間かが分かったらきっと捨てられる。絶対にいつか嫌われてしまう。

本当に些細なことをその予兆となるように捻じ曲げて解釈をし、自分が予見している未来が正しいことをくろすけに対して証明しようとしていました。それと同時にその「正しい未来」が来ることが怖く、必死になってくろすけがどんなわたしを求めているのかを探り、その通りになろうと不毛な努力をしていました。好みの女の子を聞き出そうとしたりして。でも、くろすけの言葉はいつも

「僕の好みはしのだよ。ずっとずっと好きだよ」

でした。そして、わたしはその言葉を心の底から信じることができなかった。だって、あんなにわたしを愛していると繰り返した人たちはわたしを愛していたわけではなく、自分達に都合のいい誰かを愛していたに過ぎなかったのだから。(だいたい、あんな二人とくろすけを比べること自体が大変に失敬な話です。)

いつか嫌われるくらいなら、今嫌われてしまったほうがいい。


いつか捨てられるくらいなら、ここで捨てられてしまったほうがいい。


以前は、離れていても一緒にいてもその繰り返しでした。


でも、今回はそういう話は一度も出ませんでした。


けんかはしました。でも、それはわたしがストレートに怒りをぶつけただけでした。くろすけにはめちゃくちゃ迷惑な話だと思います。が、わたしにとってはとてもポジティブな出来事でした。


そして、自分の身にいままで起きてきたことを、言葉にすることができるようになったし、客観的に見て「そうだ、確かにひどいことだった」とはっきりといえるようになりました。そういう話をくろすけに繰り返し繰り返し話していました。言葉にしてくろすけに聞いてもらってくろすけの目からの理解でもう一度冷静に見つめなおしていく、という作業をくろすけは嫌がりもせず無責任な断罪もせずしてくれました。


わたしは誰かに無条件にわたしがなにであるかではなくわたしがわたしであり交換不可能なものとして愛されることを心の底から渇望しつつも、それが手に入ったら絶対にいつか失くしてしまうと、手に入れる前から恐れていました。だから、少しでも可能になりそうになると大慌てでその可能性を自らつぶしていたのだと思います。


そして、わたしに対して行われたひどいことは、二人の愛情故なのだと心のどこかで自分に対して与えられた「愛情」にすがっていたのだと思うのです。


この二ヶ月はわたしがくろすけにとって交換不可能であることをしっかりとわたしが理解をし、偽りの「愛情の記憶」に依存することをやめることをはじめられた時間でもあったと思うのです。


離れていてもいずれはそうなっていたとは思うのですが、やはり一緒にいるということで感じられる安心感はとても大きかったと思います。そして、一緒にいられたことでこれからの離れている時間も何とか乗り越えられそうな自信がついたような。


・・・といいつつ、いない寂しさを前よりも強く感じるようになってしまった(笑)。


自分の望むものはすべて手に入るわけではないですよね。だから、いま自分が与えられているものを大切にして、それに感謝をして。高望みはしないながらも、おばさんは野望を抱いていたいと思ったり。


 


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