髪を切りました。 [追想]
僕も銀座に一緒についていって、髪を切った後にユニクロで春らしい明るい色のシャツを買いました。
なんだか隣がまぶしくてドキドキしてしまった。
涼しげ。
バイクはウィンター・スポーツだよね。 [追想]
というのは、僕が16の時にバイト先の同僚に言われた言葉です。
彼曰く、暖かくなると街中にバイクが増えるけど、本当のバイク乗りは冬でも乗る、と。
そんな篩いの役目も担ってしまうほどバイクでの冬の寒さは過酷なわけですが、しのの滞在中は日が出ているときを狙って行動していたのでそんなにつらく感じたことはありませんでした。いつも後ろにしののぬくもりを感じてこころはポカポカvってなもんです。
今回は例外的な一日のはなしですが。
不動産の下見をする予定の日は、朝8時にこちらを出発しなければいけませんでした。ネット上でめぼしい物件を検索して、すでに午前中3件、午後3件の下見の予約を入れており、その中で一番よかった物件について契約まで済ませるつもりでしたから。
あいにく、前日は雨が降っていてその日は朝から薄曇りでした。
朝の寒さに、レンタカー借りようか?などと言い出してしまう弱気な僕・・・。
(だって単車の寒さは身をもって知ってますから・・・。)
しかしながら、車だと間に合わないかもとかなんとかいいながら、結局レンタカー屋にいくか直接目的地へ向かうか曖昧にしたままバイクで出発しました。
そして実際に乗ってしまうと、まあこのまま不動産屋まで頑張ろうか、ということになるものです。僕は乗りさえすれば寒さはそれほど気にならないのですが、しのが何故そういう選択をしたのかはわかりませんけど。笑
寒いから高速に乗るのは勘弁してくれとしのにいわれて246号をせっせと上へ向かいます。
環八へ着くころにはしのは仮死状態で(笑;)僕の腰に回す手もしがみつくというよりふわっとした感じになってます。かなり心配でした。笑
そこからさらに倍くらいの距離を走って、目的地についてバイクを止めました。
長時間の緊張で体が硬直しているので、バイクを降りようとしてしのがよろけます。
顔も硬直しているので、ふたりで顔を見合わせるとへらへら笑いあうのみ。
しのの第一声は
帰りは電車で帰るから。頑張ってバイク連れてきてね。<声も寒そう
・・・半分は本気だったと思います。
不動産屋さんとの待ち合わせまでスターバックスでぶるぶるとコーヒー(しのは紅茶)を飲んで暖をとりました。
ふたりの固まり具合にカウンターのひとが笑っていたそうです。伝聞形なのはしのからの情報だからなのですが、僕はカウンターの暖かそうなものに気をとられてひとを見ている余裕なんてありませんでした。^^;
寒いながらも、ふたりだけまわり以上に芯まで冷え切ってるという連帯感が楽しかったりする、これもバイクの醍醐味でしょうか。笑
父親の霍乱 [追想]
今年の正月の幾つかのできごとを忘れないうちに書き留めておきます。
1月某日、4月からの職場との打ち合わせの帰りにしのと実家へ顔を出しました。
カニを食べにきた父親が僕の部屋の近くの駐車場に財布を落としてしまい、僕たちが警察にかわりに受け取りに行ったので、それを渡しに。
母親は風邪で寝込んでいるというので玄関で財布だけ渡して帰ろうかと思っていたのですが、財布を受け取りに出てきたのは父親で、すきやき食ってけ、と言っています。
ちょうど、帰りに焼肉屋でもよろうかねと話していたところだったのでご馳走になることにしました。
僕たち二人は単車なので父親ひとりが酒を飲んで酔っ払い、昔は僕と弟を両脇に寝かせて絵本を読んでやってねー、などとしのに向かってデレデレ昔話をはじめました。なんか、父親はずーっとこういうはなしを誰かに聞いて欲しかったんだなーと不憫になってしまいました。笑
今までは僕にそんな話をしようものなら、都合のいいときだけ父親風ふかせんじゃねぇ、みたいな勢いでしたから。^^;
さておいとましようかね、と、僕としのが革ジャンをきてマフラーをぴっちり締めて・・と単車に乗る準備をしていると、お前たちいいトシをして・・といって父親がなれなれしげにしのの足を自分の足でケリケリ・・・としてきました。もっと暖かそうなブーツ履けって言いたかったみたいなんですけど、そのなれなれしさはなんなの、父親・・・。しかもそのピンクの分厚い靴下は・・・。
なんか、しのが家族の団欒に加わったことで、父も母も娘を持つ喜びをはじめて味わえてるみたいで(笑)、うちはいままでになく円満な状態になっています。
こんな状態お互い慣れてないので、まだちょっと座りが悪いですけど。
あ、それから、カニを食べながらひとり6合ずつくらい日本酒を飲んでべろんべろんになっているときに、父親が「縁あって娘と呼ぶことになったけども、まあひとつよろしくたのむわ。」としのにおそらく用意していた(笑)挨拶をしていましたが、すでに限界まで飲んでいるしのは適当に受け流しておりました。
メモメモ・・・。
そうめんの思い出 [追想]
しのとはじめて会った7月、しのは義理のお母さんの介護と日本の暑さに疲れ果てていました。
微熱がさがらず、食欲もないしののことが僕はとても心配で、ほとんどない料理のレパートリーを総動員させて、お茶漬けを作ったり雑炊をつくったりしていたのですが(<料理?^^;)、ある日、どちらが言い出したのか、そうめんが食べたい、ということになりました。
僕が近所のコンビニで素麺を買ってくると、そんなのわざわざ作ってもらうの悪いよ、としのは遠慮していましたが、
大丈夫だよ。茹でて醤油かけるだけだから。
僕の言葉に、しのは何も言わずに一緒に台所に立ち、卵をときはじめました。
僕はそれまで素麺は茹でたてに醤油をかけて食べていたのですが・・しの的にはそれは論外だったようで、ちゃっちゃと錦糸卵を作り、みょうがを刻み、めんつゆをつくり・・僕が茹で時間を計っている前でささっと脅し水をして麺もできてしまいました。
鮮やかな手つきに僕は呆然です。
はっと気づいたら食卓にはきれいに盛り付けられた素麺が。
具沢山の素麺はもちろんそれ自体とてもおいしいのですが、僕にとっては錦糸卵が一瞬にしてできあがったりとか、みょうがを刻むとかそういったしのの一連の機能美を備えた動作が非常に感動的で、じーん・・となって食べたのでした。
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先日しのが教えてくれたつくり方でにゅうめんを作りました。
僕は醤油好きなので醤油も少し足しましたが、塩加減が絶妙でおいしかったです。
なんだか無言のプレッシャーを感じたもので、一応ご報告まで。^^;
分岐点その3 -依存すること 2/2 [追想]
つまらないことで気がめいっていてごめんね。でも、ときどき、どんなに近くにいても、受け入れてても、くろすけに拒絶をされているように感じる。君なんて要らないんだって。それは別に、どういう言葉遣いとかそんなんじゃなくて。現実的に必要な(利用価値がある。悪い言い方をすれば)人はちゃんといて、その人のことは必要としているから、きちんとそばにおいておいて。少々不愉快でも嫌いでも、自分の人生に関与させている。わたしはくろすけの人生には関与していない。少なくとも積極的には。はっきりいって、そういった現世的意味では全く利用価値がないからね。
そんなことは分かっているから、いいんだよ。だからどうしろというのではない。でも、最近、いろんな形でそういうことを示されてきたので、ずっと凹み続けていて。
でも、それはくろすけにとっても同じだしね。
そういう意味では、違う世界に住んでいるんだな、と、距離を感じてる。違う銀河でお互いにその銀河の中で運行している星みたいだなって。遠くから懐かしく見ているだけ。
しょうがないね、こんなことを言っても。
必要としている人から、必要とされるべき何かを持たないというのは、切ない。
それをほかの人が満たすことができるのをみているのも切ない。
でも、しょうがない。あきらめているから。
だから、心配しないで。くろすけのせいじゃないし、そのうちまた元気になるよ。
いい一日を。そう願うしかできないけど。
落ち込んでいるところに追い討ちをかけてしまうかもしれない。
・・・朝は読まないほうがいいかも・・・。
物理的な距離とこころの距離をしのは切り離せないものに感じているようだけれどそれは僕にとってはそうではない。こころの距離っていうのは依存だと思う。相手の存在を求めること。
どんなに物理的距離が近くても、僕は寄りかからない。依存しない。(もちろん、触れたいと思うこともない。)
物理的に手の届く距離にあれば、利用できるものは利用する。何も利用しないで世の中を渡っていけると云えるほど僕は強くもないし世間知らずではない。だけど自分や相手を偽って利用することはしない。僕が与えられる範囲で受け取れるものしか受け取らない。それで生き残れないならばそれは仕方がないと思っている。
利用価値があるからそばに置くわけじゃない。
それがなくても僕は何も変わらない。
> 必要としている人から、必要とされるべき何かを持たないというのは、切ない。それをほかの人が満たすことができるのをみているのも切ない。
僕はしのを必要としているよ。
しのが在るということ、僕を受け入れてくれること。
愛してるっていってくれること。しのの喘ぎ声。
僕が君に必要とすべきものってなんなんだろう。
それで、誰が「それ」を満たしているとしのは思っているんだろう。
僕はひとりでも平気だっていうのは、ほかの人がなにかを埋めるからじゃなくて、とっくに埋まらないままに生きる覚悟をしているから平気なんだ。そこはしのにしか触れて欲しくない。しのにしか埋められない。
・・・だまって待っていられなくてごめん・・。
しかも、何回見直してもすこし感情的っぽい・・・。
大事なことは、ほかの誰でもなくしのを愛してるっていうことなんだけど。
それじゃあ、ハープが上手くひけるように。
2005.11.1
このときのメールが、しのに依存してることを言葉にした初めだったんじゃないかと思う。
誰かを必要だと口にすることは、それまでの自分の世界を壊すようなこわさがあって、言葉にしなくてもわかって欲しいとか自分勝手に考えていたことに気づいた。
感情を言葉にすることで感情自体が影響されることってある。
このメールを出してから、僕はしのなしでは生きていけない、と思うようになった。
・・・というわけで、今にいたる、かな?
最近ようやく新しい仕事が落ち着いたので、しののところへ行っている間に書きかけだった記事を終わらせておきます。
分岐点その3 -依存すること 1/2 [追想]
変かもしれないけど、くろすけがわたしと関係のない部分を持っていて、そこで楽しくしているのを見ると安心するの。ちょっとさみしいけど、でも、安心する。
なんとなく、わかるよ。しのが僕にとってのすべてだったら、それはそれで苦しいだろうと思う。お互いにね。だから僕は僕の世界を失くさないし、君も君の世界を大切にして欲しい。
だけど、どんなに楽しくしていても、ここにしのがいたらなあって考えているし、しのが呼べば、僕はいつでも君のものだから。
2005.10.9
しのと会う以前の僕の世界は自己完結していて、誰も必要としていなかったし、されることもないと思っていたし、その孤独はとっくに自分のものになっていて、とても自由だった。
しのと付き合い始めたはじめのころ、しのと一緒にいることは望むことができなかったから、僕がひとりでいることをしのがつらく思わないように、「ひとりでもだいじょうぶ」だと、何度もしのに言った。それまでも誰にも依存してこなかったから、しのがそばにいられなくても、しの以外のひとに依存なんかしない、そういうつもりだった。
だけど同時に、「ひとりでもだいじょうぶ」だと口にすることで、しののそばにいられない寂しさを誤魔化していたのだと思う。
それでも、はじめのうちはふたりでその誤魔化しを共有していた。