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こんな風に考えています。

濡れコブタさん、hikariさん、yuさん、coochinさん、コメントありがとうございます。そしてくろすけも。


わたしは12年間、ちょっと特殊な状況下に置かれた子供たちを教える仕事をしていました。担当していたのは11歳から13歳の子供たちです。その経験をもとに息子への接し方をいろいろと考えています。


13歳くらいの子供は、大人として扱って欲しい、自分の責任で持って自由な行動をさせて欲しいという欲求があると思います。そうすることでリスクがあることであると親としては、なかなか許せなくてコントロールしようとして、そこで親子の葛藤が生じてくるのだと思っています。


わたしの基本的スタンスは、子供が質問してくることには、恥ずかしがらずに答える、性的なことはオープンに話す、子供がしていることに対しては批判的にならずにとりあえず聞く、あたりでしょうか。そのため、息子はわたしに対して非常にオープンな関係を持ってくれています。たとえば、自分のブログを教えてくれるなど(プライベートモードに設定されているため、わたしは見ることができませんが、息子が自分でアクセスしているときに見せてくれます)、自分としてはなかなかいい関係だと思っています。


そういう風に息子がオープンでいてくれるので(初めてのキスはいつだなど、けっこう赤面ものの質問もありますが)、彼の選択についてもいろいろと話すことが多いです。


たとえば、スノーボードをしたい、と彼が言い出したとき、かかる費用について、危険性について、実際にレッスンはどんな感じであるのか、など彼がわかっているかを確かめます。わかっていない場合には、それについて情報を調べ二人でそれについて話し合います。そして、彼が自分の負うリスクについて気がついている場合、そしてそのリスクが修復可能であると思われる場合については、いいんじゃないの?と彼に決定権を渡しています。


今回の場合ですが、わたしが彼を守りたいと思うのは次のような理由によります。


まず、彼自身に選択権が与えられていないこと。彼はくろすけがわたしのパートナーであることについて発言権はありませんし、くろすけがわたしを訪ねてくることについても発言権はありません。


そして、彼自身がくろすけがわたしのところに来ている際に、今の環境のままで(つまり息子の完全にプライベートな空間がないままで)すごすことにどのようなリスクがあるのかについてはまったくの無知です。もちろん、わたしは息子がどのような反応をするかはまったくわかりません。


ですが、息子がくろすけという存在を知っている以上、そして、彼女に対してある種の親近感を覚えている以上、二人が会うことは悪いことだとは思えません。


しかし、息子は大人でもあります。完全な子供であれば、性的側面については悩まないと思います。不完全に大人であり、自分の性についてまだまだ良くわからない部分を抱えている人を、性的な部分においてトラウマを受けるかもしれないようなリスクにさらすわけには行かないのです。しかも、仮にトラウマを受けたとしたら、それがどのようなものになるのかや修復可能であるかについては予測不可能ですし、絶対に一生の傷にならないとはわたしには断言できません。また、そのリスクを負うことを息子が正確に把握していてそれに対して選択権を与えられていないわけですから。そして、わたしはトラウマが生じる状況をなるべく避けることができるし、くろすけもそれに協力をしてくれると思っていたのです。


これは、車の運転を許可することやスノーボードをさせることと同列視はできません。


大人か子供か、という二元論で人間の成長を語れればそれは簡単です。でも、そうではない。その中間があるのです。そこで、どの部分を守ってあげて、どの部分を息子の手にゆだねるかというのは非常に難しいものがあると思っています。そして、わたしは性的な部分に関しては非常に注意深くありたいのです。性教育は理論です。それは実践とはまったく違う。緩やかに理論面を充実させることに努め、乱暴な形でいきなり現実に向かい合わせたくない、というのは過保護なのでしょうか。そうすることでトラウマを受け、自分のセクシュアリティーや性欲を受け入れられなくなるような危険は冒したくないのです。


濡れコブタさんのおっしゃるとおり、息子がわたしのセクシュアリティーを受け入れることと、その生々しい現実を見てしまうことはまったく違う次元のものです。わたしとくろすけが仲良く楽しげにしているところに同席することと、わたしとくろすけが性的なことをしている気配を感じることは、同列に語れないとわたしは考えています。


だから、くろすけが来ている期間も息子は通常通りわたしのところに来る。でも、その際に彼の完全にプライベートな場所を確保をする。息子の前では性的なことを匂わせるような行動はとらない。そういう風に決めたのです。


 


決めたはいいけれど、現実的問題の解決にけっこう細かくいろいろ面倒くさいものがあり、いらいらとしていました。そして、そこでくろすけと小さな行き違いがありました。ショックだったのは、くろすけがわたしのこういうスタンスを大人vs子供という二元論の観点からしか見てくれなかったことがひとつです。また、わたしのこういう考えを理解してくれていると思っていて(それが思い込みだったのだと思います。だから、基本的には確かにこれはわたしの側のミステイクですね)、協力も快くしてくれると思っていたらそうではなかったこともショックでした。そして、受けるかもしれないショックに対して、それをけがなどのリスクと同列視して、そんなの受けても仕方がない、という態度でいたことも、やはり溝を感じてしまいました。


けっこういろいろな部分で自分たちの言葉を分かり合えていると思えていただけに、みっともなくうろたえるほどの事態を自分で引き起こし、くろすけを巻き込んだのかもしれません。


 


公開の場でこんなことをかいている意図について疑問をもたれる方もいるかと思います。最後にどうしてわたしが一連の記事をここにあげているのか(くろすけへのプライベートなメールという形ではなく)、少しだけ理由を書いておきたいと思います。


わたしは、14年の結婚のあと、くろすけと出会い、離婚に至りました。その際、自分のような環境にある人の経験を知りたかったのですが、なかなか見つけることができませんでした。それはかなり孤独な経験でした。誰かとまったく同じ経験をすることはありえないし、経験者の意見が常に正しいとも思いません。でも、同じような経験をしている人がいれば、その人の経験に照らし合わせて自分の経験を客観的に自分では持ちえなかった視点から見ることもできるし、そういう経験をしているのは自分だけではない、という自分自身の「位置」の確認もできると思います。


わたしは自分ひとりで自分の存在を認識できるほど強くはないのです。自分を比べられる誰かがいてはじめて自分は何かがわかるのではないかと思います。完全に一人で孤独な人間は自分の存在の意味を見出せるのでしょうか。そして、比べられる他者というのは「比べる」というその行為の意味そのものにおいて、自分と多くの共通点を持っている、という論理的前提がそこにあります。誰もバナナと日本を比べて日本の特徴を見つけはしません。日本と比べるのはほかの国であり、二つの国には多くの共通点があります(国民がいる、ある種の政治が行われている、国境がある、国土がある、社会生活がある、などなど)。そういう意味において、自分により似ている条件を備えている他者がいるというのは個人のアイデンティティーの形成に非常に大事なものだと思うのです。


離婚した後、子供を持って同性愛者となったひとの子育ての経験というのは、やはりなかなか語られていない分野かと思います。条件的に少数にならざるを得ないし。ですので、わたしがここで自分の息子について書くことが、わたしと同じような状況にある誰かの助けとなるのではないかと考えています。たいした経験ではないし、自分がしていることに絶対の自信もありません。自分の知識や経験を総動員して、これが一番いいのかな、と思える方向に進んでいるだけです。


そして、この記事を通じて同じような経験をしている誰かと知り合うことができればわたしにとってはとてもうれしいことだと思います。それがあえて、これを記事にした理由です。


もうひとつの理由は、プライベートなメールをかくよりも、こうして公開をした形で自分の気持ちを整理したほうがいい場合もあると思うのです。二人称ではいえないことも三人称になるととたんに語りやすくなり、視点も明確になる場合もあると思います。今回は、わたしはそういう場合であると判断しました。


以上、自分の考えを長々と書かせていただきました。


なんか、考え考え書いていますので、何度も付け足したり書き直したりしていて、文章もカチカチなのであれですが、お気軽にコメントくださればうれしいです。怖いですか? いえ、わたしは怖い人ではないし、噛み付いたりもしませんから。なんか、いらいらしているので冷静になろうとして、めちゃくちゃ文章が硬くなってるだけですので。


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コメント 3

snow

しのさん。コメント遅れてすいません。
少ない経験とない脳みそをかきまわして、私なりにいろいろと考えました。
13歳、という年齢はとても微妙な年齢です。
しのさんの「不完全な大人」という表現がしっくりくるかもしれません。くろすけさんのように、すでに10代の早い時期から自分と他者の境界がはっきりとしていて、性的なことも含めたアイデンティティーを確立できている人、というのは少数派なのではないでしょうか。どちらが正しいということはないですよ。ただ人数でいえば少ないというだけ。
正直、「大人が子供より恋人を優先するのが健全」というのには私もびっくりしました。(そういう意見を持つ人もあるのか、という意味で)
自分が13歳の頃は、自分に向けられた親の愛情については、微塵も疑ってませんでしたから。
たとえ親の心の中がそのほとんどを恋人によって占められていたとしても、それとは全く別の揺るぎないものとして、自分への愛を要求する。それが子供であると思います。この場合の『子供』というのは年齢のことではなく、関係としての子供です。
しのさんの、結果について予測不可能なリスクから子供を守りたい、という気持ちに、私としては近いです。
私には子供はありませんが、大人が本人も気付かないうちに子供に与える影響力の重さ、みたいなものは、想像できます。

だけど、しのさんとくろすけさんのどちらが正しいとか間違っているとか、そういう議論ではないと思います。
しのさんの息子さんの問題が軽いというわけではなく、こんなことで別れてしまう二人ではないはず。様々な困難を乗り越えてきたお二人ですから。
どうか、二人がこれからも一緒に生きていくことができるように、
うまく意見がよりそいますように。

なんか、まとまりのない文章ですいません。
気分を害したら申し訳ない。
by snow (2007-02-22 13:06) 

yu

こんばんは。
しのさんと息子さんの関係、とっても素敵ですね(安っぽい表現でスイマセン…

これまで、しのさんが息子さんに対して心を配ってきたこと、そしてこれからの息子さんを想うしのさんの姿勢。
ものすごーく尊敬します。
by yu (2007-02-22 21:46) 

しの

>snowさん

そうなんです。どちらが正しいかとか、間違ってるとか有害とかではなくて、子供一人ひとりで成長の仕方も違うし、アイデンティティーの形成のあり方も違っていると思うのです。ささっと安定した自我を得る子もしたし、あっちこっちにぶつかりまくりながら成長をしている子もいたし、息子のように飄々と自分の場所からゆっくりと周りを観察している子もいました。

性的なことに関しては、明らかに男の子のほうが女の子よりもかわいそうな立場に置かれていると思うんです(決めつけかもしれないけど)。だから、そこを刺激するようなことはとっても不公平だと思っています。気がつかないうちにそういう部分を刺激してしまうこともあると思うので、意識的物理的に排除できる部分はなるべく排除をしたいのです。

自分の子供か恋人かについては記事を別に上げたいと思っています。

親の愛情に関してはわたしはまったく与えられない状態で育ったんです。親に愛されていると思ったことはありません。精神的虐待を受けていたんです。それゆえに、息子に対して自分が精神的虐待をしたくないのです。連鎖をここで断ち切りたいという思いもあり、もしかすると普通以上に神経質になっているのかもしれないけど。

コメントありがとうございました。


>yuさん

息子との関係、離婚してからものすごく良好です。結婚中は元夫が自分のやり方(それは隅から隅まで管理するやり方だったんだけど)を押し付けてきていて、最悪だったんです。

いまは、遠くからさりげなく見守っておいて、不必要だと思われるトラウマからはある程度守ってあげて、徐々に自分でいろんなことに立ち向かえるようになってもらおうと思っています。

尊敬だなんて・・・えへへ。たいしたことないです。
by しの (2007-02-22 23:15) 

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