SSブログ
ちょっとまじめに ブログトップ
前の10件 | 次の10件

伝えること [ちょっとまじめに]


鬱がひどくなると表現をすることとか、伝えることがとても苦痛になる。自分が伝えたいことを言葉にして相手に手渡した瞬間、その言葉をどう解釈するかも自分の手から離れるからだと思う。そういう伝わらないもどかしさが自分のおかれた状況に対する無力感と一緒になってしまう。そういうわけで、ここしばらくくろすけにきちんと自分の状態や考えていることを伝えることができていなかった・・・と思う。




どうでもいいことならいくらでも書けるし、ほかの人に話しかけることもできるんだけど、大事なことに限って言葉を紡ぐことができない。




それでも、なんとかかんとか、がんばって伝えてみることにした。




信頼関係があっても、愛し合っていたとしても、二人は別の個体なのだし、分かり合えているということを前提に甘えていてはいけない、とふと思った。わかってくれているでしょう、といいつつ、伝えることをしないでいると、相手をとんでもなく深いところで傷つけてしまう。お互いがお互いにとって一番深いところに触れることができる関係だから余計に。




「頼る」という単純な言葉でも、その実際のあり方については人によって考え方も違うし、なにをもって頼るとするのかも違うと思うし、どういう頼り方をしたいのかもぜんぜん違う。たぶん、くろすけがわたしが「頼れない」と言ってしまったときに、どういう意味において頼れないといったのかに対して解釈がまったく違ったんだと思う。そのときに、自分の手を離れてしまった言葉に対して相手がどう解釈するのかは制御できない、とアカデミックになっている場合ではない。鬱だから言葉が出てこないと、めそめそしている場合でもない、と思ってみたりもした。




それで、くろすけがわたしたちがお互いを必要としていて他者から見るととても幸せなカップルなのだと客観的に確認させてくれて、ここしばらく少し気持ちが楽になっている。


nice!(0)  コメント(4) 

Cosmos [ちょっとまじめに]





宇宙の歴史を一年にたとえると、人間の歴史は12月31日23時59分50秒にはじまったくらいらしい。地球ができたのは9月半ば。




考えてしまいますね。いろいろと。




Cosmosは子供だったことにわくわくしながら見ていました。ぜんぜんわけなんかわからないんだけど、ルネッサンスの科学者がどうやって宇宙をとらえようとしていたかとか、ロマンを感じました。




そのロマンをそのまんまカール・セーガンに投影していたらしくて、わたしの中ではとても素敵で知的な人というイメージだったのですが・・・変な顔だ・・・orz




しかも、英語がイヤー。いやぁぁぁぁぁ~。




ま、時代が時代だしな。うんうん。




わたしにとって科学はいまだにロマンです。科学者萌え。萌え萌え。








おまけ
















余談・・・

カール・セーガンのCosmosのテーマが好きだったのでYouTubeで検索したら、ヒットしたのが、ウルトラマンコスモ(誰や、お前。コス○石油の回しもんかい!)とか、Yu-Gi-Oh(誰やお前)とか、セーラームーン(原作読んだー、面白かったー)とか、セイント星矢(・・・)ばっかりなんですけど。萌えが違う、萌えが。


nice!(0)  コメント(0) 

正直さと嘘をつかないことと [ちょっとまじめに]

ここしばらく、春だからなのか(いや、もう夏か?)、好きな人ができたというような話とかをぽろぽろ・・・と聞く。

たとえば、自分に大切なパートナーがいたとして(いるんだが)。

誰かに

「しのさん、ほんとにきれいだね。年を重ねてますます魅力的だね」

なーんて言われたら、やっぱりものすごくどきどきするし(ジュリエット・ビノシュに言われるのを想像して悶絶中)、うれしいし華やいだ気持ちになると思うんですよね。それは、裏切りじゃないし、浮気でもないと思う。

でも、そのどきどきがなんとなく「恋」っぽくなっちゃうこともあると思う。特に、その相手が自分にとって憎からざる相手であれば。

好きな人に言われるともうだめです。死にます。くろすけはしょっちゅう言ってくれるので、わたしはいつも昇天中。色界の第4天で世界の最上位に位置する有頂天に登ってるんだから、当然、地に足はついておりません。

最近、ある年上の友人(男性)に、「そんな年だなんて信じられないし、ものすごくきれいだよ」とか言われたんですよ。でも、わたしは彼を友人としては好きだけど、それ以上にはなんとも思ってないので、うれしかったがどきどきはしなかったな。まあ、それに、ほら、西洋人ってこういうことを平気で口にするから、なれちゃうしね。

で、問題なのは、ほんのりと好意を持っている相手からほめられて、そのどきどき感を恋のように思っちゃうことかなあ・・・って。それは、浮気なのかな?

先日、ポリガミー、モノガミー、ノンモノガミーという話をとあるところで読んで、ちょっと考えてしまったんですよね。

ポリガミーは基本的に男性一人がたくさんの奥さんを持つ形態なわけで、ある文化圏には合理的説明があったりもするわけだけど、それでも女性の側にはいろいろとつらい思いをさせると思うんです。「かげろう日記」とか読むと、もう、胸が痛い。

確か、ジェリー・スプリンガー・ショーなんかで時々出てくる有名なアメリカ人のおじさんでポリガミーを実行してる人がいるんだけど。そのおじさんに、あなたの奥さん達がやはり複数の旦那さんを持ったらいかがですか、と聞いてみたい。

わたしは個人的にはモノガミーじゃないとやっていけないと思います。脆弱な自信とそれに見合わない極度に高いプライドがあるので。

・・・とかいいつつ、わたしは一時期、ノンモノガミーだったわけです。積極的重婚者ではないけれど、モノガミー形態以外の形をとることも認める感じ? で、不倫と何が違うんだ、といわれたら、自分の配偶者にくろすけのことを隠してなかったってことですかねえ。隠す、ということは嘘をつくことではないけれど、いくつかの局面で嘘をつくことが要求されてしまう行為だと思うんです。それで、ひとつの嘘はそのあとの無数の嘘を呼ぶし。そうなるとその嘘の連結の中で、自分の真実が何だったのかわからなくなるし。だから、正直に告げて、そこから最善の道を選びたかった(といいつつ、どろどろですが。でも、嘘をつき続けていたよりは絶対によかった)。

それから、くろすけがわたしと付き合いだしたとき、くろすけ側の基本的態度はノンモノガミーだったと思うんです。好きとか愛してるとか客観的に定義できない言葉は言えないとか・・・。いまから考えると、それはくろすけが嘘をつきたくなかったからだと思うんですよね。思い込みで口にしてしまった言葉を間違いと気がつきつつ、繰り返すことで嘘を繰り返したくなかったんだろうなあって。

そういう意味でも、一生しのだけ、とはくろすけはなかなか言ってくれなくて。いまとなれば、それも嘘をつきたくなかったからなのだと思います。

だから、ノンモノガミーを目指す人(って言うか、自分がそうだと思う人)というのは、実はとても正直な人なのかなあと思うのです。あなたを好きでいるときに、ほかの人にときめいたり、ほかの人を好きになったりしない、とは言い切れない。

そういう可能性があることを相手にはじめから告げておいたり、そういう事態になったときには正直に相手に告げる、という姿勢なのかなあ、と思ったり。それは相手を傷つけたり、自分の望まない事態を招いたりするという可能性があることも視野に入れてのことだと思うんですよね。誰にでも独占欲はあるし、嫉妬心もあるから。そして、自分ももしかしたら複数のうちの一人になるかもしれないというリスクも引き受けるという覚悟も必要ですよね。

そのリスクを引き受けた・・・というかまあ、そういうことをしてどうなったか、という話が「とはずがたり」かなあ。

もしくろすけがわたし以外の人にときめいたとか好きな人ができたとか言ったら、ものすごく傷つくことは必至です。Vice versa(だよね??)。そういった意味において、わたしはやっぱりモノガミーの人間だと思います。

そうそう、それからね。

結婚をしていたときは、自分の心の片隅の自由奔放思春期娘がしょっちゅう恋に恋をしておりました。そうやって、恋に恋してる自分は決して嫌いではなかったです。

しかし、くろすけと知り合ってから、そういうことは一切なくなりました。自由奔放思春期娘はくろすけにくびったけ。そのくびったけ具合を、ちょっと大人の上から目線でほほほと見ている自分もいたりして。そんな風に大人のふりをして余裕を見せつつ、実はぜんぜんそんなことはないことも知ってたり。

なにがいいたいのかわからなくなってきました。笑。

まあ、ほめられたりすると誰でもどきどきするわけで。そのどきどきを恋と勘違いしてしまわないように気をつけないと。つり橋効果ってやつですね。


nice!(0)  コメント(4) 

少しずつ前に [ちょっとまじめに]

くろすけと2ヶ月一緒にいて本当によかったです。わたし達のことですから、なにをしたわけではありません。最後になってちょっとあわてて砂丘に行ったり、農場で子羊に授乳をしたりとちょっと忙しくしていました。


そのわりには、炭火焼き鳥は3回もしています(笑)。


そういう目に見えることもありますが、目に見えないこともありました。


一番大きなことはわたしの内側だと思います。


以前は(くろすけが時折記事にしていましたが)、理不尽にくろすけを責めることがとても多かったです。


呪いのように自分の一番近くにいた二人から繰り返し聞かされた「あなたなんて誰も愛さない。自分だけがあなたみたいな人を愛せるんだ」という言葉がわたしの一番深いところに常にあったからだと思います。そういいながらもその二人はわたしに「都合のいい存在」であることを求めていただけだったりもして。だから、常に自分ではなく、相手が求める都合のいい自分であろうとわけの分からない努力をしていました。

くろすけが本当にわたしがどんな人間かが分かったらきっと捨てられる。絶対にいつか嫌われてしまう。

本当に些細なことをその予兆となるように捻じ曲げて解釈をし、自分が予見している未来が正しいことをくろすけに対して証明しようとしていました。それと同時にその「正しい未来」が来ることが怖く、必死になってくろすけがどんなわたしを求めているのかを探り、その通りになろうと不毛な努力をしていました。好みの女の子を聞き出そうとしたりして。でも、くろすけの言葉はいつも

「僕の好みはしのだよ。ずっとずっと好きだよ」

でした。そして、わたしはその言葉を心の底から信じることができなかった。だって、あんなにわたしを愛していると繰り返した人たちはわたしを愛していたわけではなく、自分達に都合のいい誰かを愛していたに過ぎなかったのだから。(だいたい、あんな二人とくろすけを比べること自体が大変に失敬な話です。)

いつか嫌われるくらいなら、今嫌われてしまったほうがいい。


いつか捨てられるくらいなら、ここで捨てられてしまったほうがいい。


以前は、離れていても一緒にいてもその繰り返しでした。


でも、今回はそういう話は一度も出ませんでした。


けんかはしました。でも、それはわたしがストレートに怒りをぶつけただけでした。くろすけにはめちゃくちゃ迷惑な話だと思います。が、わたしにとってはとてもポジティブな出来事でした。


そして、自分の身にいままで起きてきたことを、言葉にすることができるようになったし、客観的に見て「そうだ、確かにひどいことだった」とはっきりといえるようになりました。そういう話をくろすけに繰り返し繰り返し話していました。言葉にしてくろすけに聞いてもらってくろすけの目からの理解でもう一度冷静に見つめなおしていく、という作業をくろすけは嫌がりもせず無責任な断罪もせずしてくれました。


わたしは誰かに無条件にわたしがなにであるかではなくわたしがわたしであり交換不可能なものとして愛されることを心の底から渇望しつつも、それが手に入ったら絶対にいつか失くしてしまうと、手に入れる前から恐れていました。だから、少しでも可能になりそうになると大慌てでその可能性を自らつぶしていたのだと思います。


そして、わたしに対して行われたひどいことは、二人の愛情故なのだと心のどこかで自分に対して与えられた「愛情」にすがっていたのだと思うのです。


この二ヶ月はわたしがくろすけにとって交換不可能であることをしっかりとわたしが理解をし、偽りの「愛情の記憶」に依存することをやめることをはじめられた時間でもあったと思うのです。


離れていてもいずれはそうなっていたとは思うのですが、やはり一緒にいるということで感じられる安心感はとても大きかったと思います。そして、一緒にいられたことでこれからの離れている時間も何とか乗り越えられそうな自信がついたような。


・・・といいつつ、いない寂しさを前よりも強く感じるようになってしまった(笑)。


自分の望むものはすべて手に入るわけではないですよね。だから、いま自分が与えられているものを大切にして、それに感謝をして。高望みはしないながらも、おばさんは野望を抱いていたいと思ったり。


 


nice!(0)  コメント(2) 

子育てするのはママだけかい? [ちょっとまじめに]

↓の記事がトップに来ていたときの広告が




だったんですよ。


「子羊なら」でホットペッパーというのはブラックジョークでしょうか。それとも、人間の矛盾した存在についての深い哲学的命題を提示しているのか・・・。


で、「赤ちゃんの月賦」・・・じゃなくて「赤ちゃんのゲップを楽に」というリンクに行ってみたのです。あれねー、苦労したんですよね~。必死で乳を出してやっと飲み終わってくれて、よしよし、と思って肩にもたれさせてゲップをさせた瞬間、すべてが逆戻り・・・とか。出すなら下からにしてくれって泣きました。頭にオムツをかぶせたかった。


で、行ってみたら!


キャッチコピーが「素敵なママでいてほしい」なわけ? 


なんで「ママの二大お悩み」なわけ?


子供が寝ないのも泣き止まないのも母親の責任なの?


子供生んだら女はママでいればいいだけなの?


以前、日本に帰ったときにムーニーの広告で、女の子はお花が好き、男の子は乗り物がすき、みたいなのをみて激怒したことがあったんだけどさ。


こういう広告やらなんやらを作る意識を持ってる人がジェンダーフリーに対して「更衣室を男女共同にするなんて信じられない」とか、わけの分からん批判をしたりするのよね。それで、同性愛は異常だ、とか言ってみたりさ。女は男に嫁いで子供を生むのが幸せなんだ、とか言ったりして。


まあ、こういう広告がでたときにきちんと批判とか抗議の声を上げない自分もいけないんだけどね。


 


一応、母親が子育てをするって言う間違った社会的に恣意的に形成された慣例を助長するような表現を使うのはよくないと思うって意見を送っといたけど。同性の親もいるだろうし、父親一人、母親一人、とかいろんな家族の多様性を考慮に入れた表現を使ってほしいって。


 


 


nice!(0)  コメント(0) 

結婚、不倫、離婚、セックス 番外編 [ちょっとまじめに]

その1 その2 その3 その4


 


息子と元夫について考えてみます。


息子に関しては、二親がそろっている幸せ(?)と、たとえ両親が離婚をしても、わたしが自分らしく幸せに生きている姿を見せるのと、どちらがいいのだろうと悩みました。それで、やはり、離婚しないでいたほうがいいのではないかと別居をしたあとでも思っていました。


元夫は親しい友人で息子を大切にしてくださっている方から


「昔は、夫が愛人を作っても妻は我慢していたんだから、君も妻が愛人を作ってもがまんせにゃいかん」


といわれたようです。


でも、いまは、やはりわたしが幸せになっていることが息子の幸せにつながっているのだと思っています。そして、そうやってつかんだ自分の幸せに傲慢にならないで息子のことも考えるのが大切かな、と。子供の「ため」にがまんするというのはやっぱりよくないと思います。子供のためにも幸せになろうと思います。


元夫ですが・・・。妻がほかの女性を好きになってしまったというのは、ほかに好きな男性ができたというよりもかなりわかりにくい状況だったようです。男性としての自分を否定されたようにも感じたでしょうし、わたしが同性愛者なのであればいままでの自分たちの関係はなんだったんだとも思ったと思います。そして、当然のことながら、くろすけに対して激しい嫉妬がありました。


が、以前からわたしは元夫はわたしという個人を必要としているのではなく、女性という性を持ちセックスの相手をして彼の生活を快適にすることができる人を必要としているだけでは、と感じていました。たとえば、いざ別れようというときに


「これから自分の人生の決断をどうやってすればいいんだ。君がいなくなるといろんなことを決めるのに困るじゃないか」


と聞かれました。知らん。自分で決めれ。


そして、以前、どこかにも書きましたが、わたしが家を出たその日からほかの女性と関係を持ちました。


友人たちは、わたしと結婚しているときから浮気をしていたんじゃないか、といいますが、それは絶対に違うと自信があります。その程度までわたしは元夫の生活を管理させられていました。また、彼が必要なのは女性の体なのです。ある程度自分の許容範囲にあるのであれば誰でもいいわけです。そして、そんな人が二人もいると生活の管理が煩雑になりますし、わたしにすべてを管理させられないので、面倒くさいので二人目は作らないわけです。


が、わたしがいなくなった瞬間、壊れてしまった靴を履き替えるように、一番初めにアプローチをしてきた女性に乗っかったのです。そして、腰を悪くしていまにいたります(苦笑)。


別居をするまでは、さんざん愛しているとか言われたので本当に申し訳なくて申し訳なくて、でも、くろすけと別れろといわれても絶対にそれはできないので正直にできないといい続けて。つらかったです。


しかし、別居をしてすぐに元夫に関してはこのようなjerkであったとわかる出来事が立て続けに起こったのでたいして悩んだりはしませんでした。そうではなくて、別居をした後でも愛情と思いやりをもってわたしに接してくれるような人であれば本当に苦しんだと思います。


しかし。


もしわたしを彼の生活の管理人と性欲の処理用として必要としていただけではなかったのであれば、くろすけをわたしは必要としなかったと思います。自分から不倫をしておいて盗人猛々しいといわれるかもしれませんが、もし元夫が自分のneedsを満たすことをわたしに要求するだけではなく、わたしが何を求めているのかを理解して満たしてくれていれば。


そういう意味において、単に性欲の処理のための浮気ではなく、真剣に結婚相手以外を好きになってしまう場合は、その原因はどちらかにあるのではなく、二人の関係の中にあるのではないかと思うのです。


 


nice!(0)  コメント(0) 

結婚、不倫、離婚、セックス その4 [ちょっとまじめに]

その1 その2 その3


<考察3: 自分の本当の選択>


わたしはくろすけと一緒にいたい、と思っても、その確信は表面レベルでは揺らぎ続けました。


はじめのうちは、自分の結婚を「続けなければ」という欺瞞があって、それゆえ「元夫を愛している」だから「くろすけとは一緒にいれない」という建前を押し通していました。これ、怖いのは、自分がその建前の後ろにあるものに気がつきたくないのでこれにしがみついてしまうことです。そして、その建前が守ってくれるものにもしがみついてしまう。


だから、すぐにくろすけの手を放してしまいそうになっていました。本当のことに気がつくのが怖い。気がつきたくない。本当はくろすけと一緒にいたいのに。でも、それを認めてもう元夫を愛していないと自分にわからせるのが怖かった。


離婚に対する偏見もあったし、生活の不安もあったし、子供のことも考えたし、世間様の目も考えました。こういう大人の事情って汚いけれど、軽くはないです。そして、わたしはそれを簡単に乗り越えられるほど強くもなければ純粋でもない。だから、わたしは建て前が本当のふりをし続けました。


くろすけに心のそこから感謝しているのですが、くろすけはそういうわたしに向かって


「わかったよ。それがしのの選択なら僕はなにもいわない。身を引くよ。別れよう。だんなさんと幸せにね」


と一度もいわなかったこと。僕はしのを愛しているんだから、しのしかいないんだから、しのが連絡を取ってくれなくなっても、目の前からいなくなっても、僕にはしのしかいない。…ああ、書いててテレテレしてしまう・・。ごめんなさい・・・。


そういってわたしからくろすけという選択肢を奪わなかったことは本当に感謝しています。もしくろすけが美しく身を引いていたら、わたしは今頃、本当に選びたいものを失っていたと思います。


愛していてもその人のために身を引くというのは美しいし、少女マンガなんかを通して「最大の愛の表現」みたいに刷り込まれてたりすると思うんだけど。わたしはくろすけがわたしに示してくれた態度を通して、身を引くのは決して愛の表現じゃないと思っています。


もし、わたしが身を引いたとしたら、それは自分を選んでくれなかった人への復讐のためだと思います。愛し合っていたのになんらかの理由でわたしを選んでくれなかった人があとになって間違いだと気がついたとき(間違いに決まってる!だって貴女が愛しているのはわたしなんだから!)に、わたしを選びなおすことができず苦しむことを知っているからです。そうして選ばれなかった自分の苦しみを相手に投げ返したいからだと思います。


自分が選ばれない苦しさを味わいながら、なおかつそれを「身を引く」という「美しい」行為でわたしに投げ返さずにいてくれたくろすけに本当に感謝しています。


だって、だからわたしは自分の本当の選択をすることができたんだし、いま、こうして幸せになっているのだから。


 


長々と自分の経験とそれについてがたがたぐたぐた考えてみました。お付き合いいただきありがとうございました。


・・・番外編も書いてみました。


nice!(0)  コメント(6) 

結婚、不倫、離婚、セックス その3 [ちょっとまじめに]

その1 その2


<考察2: 二人以上の人と性的関係を結ぶ>


ブログを徘徊していますと、セックスフレンドというものをたくさん持って楽しく過ごしておられる方もいるのに気がつきます。それで自分が苦しくなく、他人を傷つけないのであればいいかな、とも思います。愛のないセックスとかもあるだろうし。セックスがスポーツみたいにすきで、いろんな人としたい人もいると思うし。


ただ、わたしにはそれはきつかったです。結婚もしていてくろすけもいた期間は約1年ほどなんですが、二人の人間と性的関係を結ぶのはなんだか自分を穢しているようで本当に嫌でした。「二人とも愛しているんだから」できるはずって思っていたんですが。さっさとくろすけと別れるか離婚するかしろよ、って感じです。それでも「二人とも愛している」にわたしはしがみついていました。


元夫に抱かれたのはくろすけと知り合ってから数えるほどです。かなり必死で避けていました。それまでもかなり避けていたのですが、くろすけと知り合ってからは必死でした。男の人とのセックスがもう絶対だめになっちゃったというのもあるけど、くろすけに対する貞操感というものがものすごくありました。くろすけを裏切ってるみたいに感じるんです。この段階で、自分の気持ちに気づけよ、ヲラ、って感じ。


くろすけをいわゆる「日陰者」(・・・ふるい?)の立場においていることもすごく嫌でした。ものすごく不公平な気がして。


それから、わたしの側からは、これまたまったくのわがままで自分でもすごいと思うのですが、くろすけが例の人と関係を持ち続けることはものすごく嫌でした。知り合って少しずつ近づきつつあったころ、わたしのほうでもしかしたらくろすけが例の人にあっているのでは、という疑いを抱いたことがあります(根も葉もない単なる疑いです)。本当に苦しかったです。自分だって夫がいるわけだから、人のこといえないけど苦しくて。ゆきずりの関係だとは思いつつも、わたしとこうしているときは絶対にほかの人と寝ないでくれとくろすけに頼みました。


やっぱりね、自分が真剣に愛している人がほかの人ともセックスしていい気持ちになってるっていうのは傷つきます。じゃあ、自分とも性欲だけかしら、体が目的?って感じで。


そして、そういうことを考えていたときに、元夫とセックスができなくなった自分を振り返ってみたんです。それで、自分が元夫を実は愛していないことにも気がついてしまった。これに気がつくのが怖くて、自分にものすごい量の嘘をついていたんです。


つづく・・・
(たぶん、3月2日に・・)


nice!(0)  コメント(2) 

結婚、不倫、離婚、セックス その2 [ちょっとまじめに]

その1からのつづきです。


 


<考察1: 結婚、セックス、そのほか>


すべての男の人がそうだとは思わないけれど、男の人にとってのセックス(=挿入)ってものすごく意味があるものみたいです。それができなくなるとそのフラストレーションはものすごいネガティヴなエネルギーになって発散されます。ことに「いままでさせてくれていたじゃないか!」みたいな場合は。男の人からセックスレスになってくれたら楽かもしれませんが。


そうでもない限り、セックスは結婚生活の一部としてあり続けるだろうし、自分ひとりでがんばってセックスを拒否するのは、相手が求めてきている場合はものすごいエネルギーが必要でした。セックスの拒否だけで精神的には変わらないとかそういうことを言っても、相手には通じませんでしたし。愛しているならできるはずだって。そりゃ、正論ですわな。完全にインポになったとかじゃなくて、ほかの人とは燃えるセックスをしてて性欲もたっぷりだけど、結婚相手のあなたとはしないってなんか変だよね。


わたしはくろすけに会って初めて自分の性というものを理解したのですが、その理解以前にも男性とのセックスは苦痛以外のなにものでもありませんでした。そして、くろすけとの性を知った後では、絶対に男の人は嫌。もう、絶対だめ(断言)。自分にとって好ましくない行為って一度や二度は平気だけどそれが日常の一部になることはものすごい苦痛でした。


わたしはいわゆる世間様の基準からすると、「ものすごく社会的地位があり」「多くの人から尊敬され」「経済的にも余裕綽々で」「背が高くてハンサムで(当社比)」「これ以上は望めない高学歴」「社会正義のために戦っていて」っちゅうツチノコみたいな男の人と結婚してたんです。そして息子は、飄々としていてなかなか味があり将来は大物になりそうでそのうえ間抜けで頭もいいしラグビーの選手として優秀でJazzピアノはうまいし背も高くてわたしに似てハンサム(ん?)で健康優良です。


でもね、そんなものでは幸せにはなれませんでした。わたしを幸せにしてくれたのはくろすけです。だから、離婚後に幸せになったわたしを母親として認めてくれている息子とのおとぼけな関係もしあわせだし。猫も。


 


つづく・・・
(3月1日くらいに予定)


nice!(0)  コメント(0) 

結婚、不倫、離婚、セックス その1 [ちょっとまじめに]

最近、あちらこちらのサイトをのぞかせていただいていろいろと考えることが多いです。わたしはどうだったのかな、と思い返しながらたらたら書いてみようかな。わたしの経験が誰かの参考になるかもしれないし。



<わたしの場合は、まあ、こんな感じ>


わたしは結婚しているときにくろすけに会いました。会ったときは、事情があって一人で日本に長期滞在をしていました。ブログで知り合った人たちとオフで会ったりしていて、くろすけもそのうちの一人でした。


くろすけがすきだと気がついたとき、くろすけは女の人だし、ものすごく仲良くしていても誰にも気づかれないしばれないだろう、とずるく考えました。結婚もしてて子供もいて、「仲良し夫婦」(そう自分で思い込んでいたし)だったわけだから、絶対に誰もくろすけとわたしの仲を疑ったりしないはず。いや、それどころか、結婚中に男の人にわんさか迫られたけど(笑)、一度も誰とも浮気をしなかったことは周知の事実だから、わたしが浮気をするなどと思う人はいるはずがない。


元夫との関係は、感情的なことは変わらないし、セックスだっていままでどおりに努力ができるはず。・・・というのは甘かったんだけど。


それが2005年の7月。ひとつき一緒にいました。くろすけはわたしが日本からいなくなれば、わたしのことを忘れるだろうと思っていました。そして、離れてもまた戻るという関係を繰り返していた恋人とそういう関係を続けるだろうし、例の人とも・・と。くろすけはくろすけで、わたしが結婚という守られている場に帰れば、そこでまた幸せに日向の猫になりくろすけと一緒にいるという冒険などするはずがないと思っていたようです。


でも、くろすけに会いたくて会いたくて、抱かれたくてしょうがない。もう、元夫にはキスもしてほしくないし、突っ込んでピストン運動を激しくするだけのセックスなんてうんざりです。中山可穂の「深爪」の吹雪の気持ちがものすごくよくわかります。


8月いっぱい、メールを交換しまくり(ものすごく長いのが300通近く)、9月にくろすけに会うために日本に行きました。言い訳はいとこの結婚式とかいろいろ。そして、くろすけに会って、絶対に別れられない、と確信しました。この確信は表面的にはそのあとも揺らぎ続けるんだけど。


なので、こちらに帰ってきてすぐに元夫に、好きな人ができた、と打ち明けました。で、元夫の反応がやっぱり中山可穂の「深爪」のマツキヨそっくりだったわけ。女だったら構わないよ、仲間に入れてくれるならもっといい。セックスしてくれるんだったら構わない。


なんというか、この時点では元夫とは性の絡んでこない親友として、子供への責任(子供ではなくて)を共有する個人として向かい合えると思っていました。そしてくろすけを愛しているという自分にも正直に生きられると。が、甘かった。いやいや、甘甘でした。


2006年の2月にくろすけにあって自分の中では一応気持ちを固めて。


で、2006年の5月にわたしがもう元夫とはセックスをしたくないといったら不倫とののしられ、強姦されて首を絞められた、と。離婚は泥沼になって今に至る。笑。


相手にもプライドとか執着とかあるから、そんなに美しくあっさりきれいに物事は運ばなかったです。


 


つづく・・・


nice!(0)  コメント(0) 
前の10件 | 次の10件 ちょっとまじめに ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。