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言葉をつくす [ちょっとまじめに]

相手をわかりたいし、わかってほしいから、とにかく言葉にする。
自分が傷ついたことや、相手を傷つけたことを言語化するのに痛みが伴わないわけではない。
だけど離れていて、言葉でしか相手に触れることができない以上、わかり合おうという意思を持って僕たちは会話を重ねてきた。


少なくともいままでは、些細なすれ違いや、お互いの愛情に対する自信のなさからくるいろいろはそれで解決してきた。



今回は、少し違うみたいだと感じている。僕がしののことをどんなに好きでも解決できない。この言葉の先は、両親の涙や、打たれた頬の熱さや、友人からの否定、僕の手にお金を握らせていった祖父の言葉・・といった苦い記憶しか知らない。それでもとにかく、こうすることでしか状況はかわらないので。



まず、子供と大人の中間状態について、
自分を13歳に立ち返らせて、相手と同じ状況にあることを想像することはできる。だけど、そのときの感情は「13歳の僕」でしかなくて「一般的な13歳」の思考は僕の中にはない。物心ついたときには周りの大人と対等だと感じていて、それを認めてもらうにはいろいろな依存を断ち切らなくてはいけないと思っていた。


性的なことについて、
僕は性的なことについて悩んだことがない。違う問題が心を占めていたからだろうと思う。だから13歳の子供がどれだけ性的なことに頭を占められているのか僕にはわからない。



わかろうとしないからだとしのはいう。
どうして「普通」そうだということがわからないのか、と。
そういう考え方をするひとがいることはわかるし、しのがそういう考え方だということはわかる。
どちらが正しいとかではなくて、ただ、違う考え方があるだけだと思っている(あるいはそう思いたい)。
そういう考え方を前提としたしのの息子さんへの接し方を邪魔するつもりもない。
いままでだってしのが自分の国に残ることをサポートしてきたし、協力も惜しんでいない。


ただ、「過保護だ」とか「そんなのわかんないよ」とか「雑魚寝だっていいじゃん」というような感情を口にしているだけなのだけど、それはいけないことなんだろうか。
それをやめていままでと同じ関係が築けるんだろうか。


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メルヘンの話。 [ちょっとまじめに]

わたしには息子がいる。今度13歳になる。健康な男子だ。


わたしには家がある。小さい家でプライバシーの保てる部屋はひとつしかなく、そこがわたしの部屋になっている。あとは、台所と居間、居間を通り抜けたところに風呂場と便所、屋根裏の階段を上がったところにオープンスペース、そこを通り抜けるとわたしの部屋。


息子は水曜日の夜に泊まりにくる。そして、週末の金曜に来て、日曜の昼に父親の家に行く。その間、息子は下の居間にあるソファーベッドで寝ている。わたしと過ごしているとき彼のプライバシーはない。


息子に会える距離にいるために、わたしはくろすけと一緒に暮らすことを先延ばしにしている。息子が18歳になったら、今いる町に住み続ける理由は一応なくなる。18歳になったらケツをけって独立させるつもりだ。


 


 


3月の末から2ヶ月、くろすけがこちらに来る。そのとき、今のこの状態で息子を置いておくわけにはいかないということが彼女にはわからない。


13歳の息子の前をトランクスにTシャツで歩き回るといってみたり、息子の部屋がないなら三人で一緒に寝ればいいといってみたりする。


それは、息子に対して不公平だし、だいたい、はじめてみる裸が自分の母親(父親でもいいが)の恋人だというのはトラウマになる可能性が高いから避けたほうがいいといっても、そんなのはわからない、としかいってくれない。


息子が泊まっているときにセックスをするときにはわたしが声を我慢すればいいのだ、という。


息子がもっと小さければ話は簡単だったかもしれないけれど、第二次性徴が始まっていて性に興味がある息子をいらぬトラウマから守りたいというのは、わたしのわがままなのだろうか。母親が自分の父親に抱かれる声を聞くのも子供にとっては難しいだろう。それが、自分とは血のつながりのない恋人に抱かれている声だとしたら深いトラウマになることがわからないという。


性欲が出てきて性に興味がでてきている息子の前を下着姿で歩き回り、彼の性欲を刺激することが楽しいのだろうか。楽しいはずはないだろう。では、なぜ、下着姿(トランクスは立派な下着だ)で歩くなどといえるのだろう。しないで、と何度も説明してもわからないと繰り替えずばかりで。


だから、息子のために小さい家なのに無駄に広い敷地にキャンプ用のキャラバンかログハウスを建てようと思った。とにかく息子のプライベートな部屋を作ることが一番簡単だろうと思った。くろすけに話しても、わからない、としかいってもらえないから、現実的にトラウマから守れる方法を取るしかないと。


でも、キャラバンもログハウスも両方とも問題点があり、そう簡単にどちらかとは決められない。いろいろと問題点が山積みになり、少し話を聞いてもらいたかった。


それだけだったのに。自分の問題点を整理するために話を聞いて欲しかっただけだ。


もしわからないなら、そういう事実があると受け入れて欲しかっただけだ。


くろすけはわたしと一緒にいたいだけで、それが本心だという。そんなのはわたしも一緒だ。


じゃあ、本心にだけ従って生きていけばいいの?


わたしにはそれはできない。わたしはくろすけと一緒にいたいけれど、同時に息子をいらぬトラウマからも守りたい。すでにわたしの離婚やカミングアウトで、本人は飄々としているけれどそれなりのトラウマを受けているであろう息子を。


くろすけに子供がいないことは知っている。だから、母親の気持ちを理解しろといっても現実感を持って一体感を持って共感をすることはできないかもしれない。でも、少なくとも、性欲が充満しつつある13歳の子供の視点から自分の親の恋人の下着姿を見て性欲が刺激されるということが笑える状況ではないことはわからないのだろうか。


わからないのかもしれない。世の中にはそれを笑い話としている漫画やドラマがたくさんあるから。


それなら、そういうことになるというわたしの言葉を事実として受け入れることもできないのか。わからないから、といってその状況にたいして苦しんでいるわたしを「わからないもの」としてそこで終わらせてしまうのか。理解させてくれといわれても、どう説明をすればいいのかわたしにだってわからない。ただ、自分の今までの経験(教えてたこととかいろいろ)で、そうなるという事実を知っているに過ぎないのに。


息子には、くろすけとわたしが性的関係にあることは話してあるし、女同士でどうするのだと聞かれたので指を使うんだ、ともはなしたことがある。


そういう話を聞くことと、実際にそれを目の当たりにしてしまうことは違うということがわからないのか。わからないのならば、目の当たりにすることがトラウマにつながるというわたしの言葉を事実として受け入れてくれることはできないのか。そして、わたしが息子を心配していることを受け入れて、わたしに協力をしてくれと望むことはわがままなのか。


自分はしのといたいだけだ。そういう本心に従って行動する、というのは美しい。美しすぎてメルヘンみたいだ。


でも、そのメルヘンゆえにわたしは自分の息子にトラウマを与えることはできない。


自分の本心に正直でいたい。それと同時に守るものを守りたい。だから、いろいろと手を打とうとしているのだけれど。現実問題としてそう簡単ではないから、あれこれと考えて悩まないといけないのだけれど。


そして、いろんな問題についてわからないからストレスがたまってるから話を聞いて欲しかっただけなのに。


それもこれも、くろすけと一緒にいたいからなのに。だから、いろんな現実問題を考えて、自分に見えていない問題があるかもきちんと考えて一番いい解決法を早く見つけようと思ってるのに。息子も傷つけないように。


本心にだけ従って美しく行動しないわたしが薄汚れた日和見主義者みたいに思えてきた。


なんだか、くろすけに息子のことを伝えようとしても、自分はわからない、と拒絶されるばっかりで、気がめいっているので、つらつらと思うままにかきました。不愉快に思われる方がいたら申し訳なく思います。子供を最優先すべきだという意見もあるかと思います。でも、わたしはくろすけと一緒にいたいのです。2ヶ月一緒にいれるというのはわたしにとって信じられないくらいうれしいことなのです。でも、息子もわたしにとっては大事なのです。両方を取ろうとすることがそもそもの間違いなのでしょうか。


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柳沢発言もあれだけどさ [ちょっとまじめに]


最近、YouTubeで「ごくせん」をみている。なかまゆきえ(漢字知らん)がけっこう好きなのです。目が大きい女の人が好き。映画「大奥」は最悪だったけど。




「ごくせん」が放映されていたとき、わたしは仕事上の関係で日本人の駐在員の子供たちといろいろと関係を持っていた。そのときの子供たちが面白いんだと大騒ぎをしていて、日本から彼らのじいちゃんやばあちゃんが録画をして送ってきてくれるビデオが引っ張りだこになっていた。貸してあげるといわれても、ビデオデッキを持っていなかったので、丁重にお断りをしていた。




たまたまYouTubeで見かけたので、閑だし、見てみた。




けっこう面白い。話は単純で、現実では絶対にこうはいかないと思うけれど、こういう「現代の御伽噺」を必要としているのだろうな、とぼんやり思う。人の善意が簡単に通る、思いやりとやさしさで問題が解決する、努力は必ず報いられる。そういう夢を必要としているほどなのかな・・・と曖昧に考えたりもする。




でも、気になるのは、ドラマ全体を貫くヘテロ思想だ。まあ、男子校が舞台なんだから、男子が女の子にあこがれるのはいいとして。その中に男にあこがれるゲイの生徒を入れろ、と要求することは、このドラマが架空の漫画的空間であることを考えればばかげた要求だとは思う。これは御伽噺なのだから。現実に即さない「理想」の空間なんだから、と思う。何もかもがスレテオタイプファイされてるのだし。




こういうドラマを作るなとか批判するくらいならば、自分の子供が見るときに一緒にみて、




「この学校の生徒が100人なら、本当は6人は同性愛の男の子がいるはずなんだけどね」




とか、恋人と一緒にみるときに




「こういう精神論って第二次世界大戦に突入していったときの軍部の思想に通じるよね」




とかいって、相手の楽しみを台無しにする楽しみを味わえばいいのだ(暗い?笑)。




でも、第8話を見て、ちょっとカチンと来た。







でてくる女性の先生のうちの一人、保険の先生は自分の夫と死に別れているのだけれど、その夫と先妻(この人も病死)の間の子供を1歳から6歳まで育てていた、という設定。その子供が彼女に会いに来て、お母さんと暮らしたい、とわがままを言うのだ。それで、




「母親だろ!」

「血がつながってなくったって、家族だろ!」




みたいな安易な議論で子供と一緒に暮らすことになっちゃう。こらいかんやろ、と思う。女だったら母親なのか。しかも、一緒に暮らすか祖父母が預かるかみたいな二者択一しかないのはなぜだ。




柳沢発言が問題になってるけど、あれは彼一人の意識じゃないと思う。社会の中に深く埋め込まれている意識・・・というか、女について話すと、「いずれは結婚、子供を生んで母親に」みたいな話しかできないようになっている言語に埋め込まれた社会意識が問題なんだと思う。だから、ドラマの中で




「一人の女だろ!」

「血がつながってない子のために自分の人生台無しにするのかよ!」




みたいなせりふはいえないんだろうな。ドラマ的リアリティーがなくて。




つい最近も、とある大人気ブログで「やっぱり女の子はやさしくて料理が上手であれば馬鹿でいい」というような表現を読んで一瞬スルーをしてしまった自分がいた。だって、日本語として自然なんだもん。「料理がへたで気が強くても頭のいい女の子が最高」って日本語として不自然だもん。




だから、柳沢発言についてがたがた言う前に、自分自身で息子と将来の漠然とした話をしているときに




「将来のパートナー、男でも女でもいいけど、『君のために・・・』みたいなことをいう人とは一緒になったらあかんでー」




なんて、不自然な言葉遣いをしてみるようにしている。そして、竹内マリアの「元気を出して」で「彼だけが男じゃないことに気づいて~♪」と歌われたときに、間髪をいれず




「男だけやないで~女もおるで~」




というくろすけが好きだな。

(って、最後はのろけで締めくくりです。笑)




Openly gay [ちょっとまじめに]


下の記事でくろすけがカミングアウトについて話しているので、わたしも自分の立場をこの辺でちょっと書いておこうと思います。




わたしはカミングアウトはする必要はないと思っています。どうしてもしたい、自分が同性愛者だとわかっていただきたい、という強い欲求や、カミングアウトをする必要性が生じてきたのでなければ、いう必要はまったくないと。




わたしの場合は、息子にはきちんと話したかったので、話してあります。周りにははっきりいったのはボランティアに参加するときに、一応、話しておいたほうがいいかな、と思ったので話したくらいかな(ボランティアの性格上、話したほうがいいと判断したのです)。あとは、息子の学校の担任の先生に話しておきました。




学校の先生に関しては話すつもりはなかったんだけど、元夫がわたしのセクシュアリティーについて(それは人のセックスライフについてと同義語だと思います)言いふらしたので、もしかして息子の友達がそれを又聞きして悪意に解釈をしていじめに発展するかもしれない、と懸念したからです。幸い、そういうことはなく過ぎているようです。




それ以外だと話したのは、カウンセラーとかそういうケアの専門の人たち。




普段は特になにも言っていません。ただ、くろすけについて話すときに、わたしのガールフレンドが、と話しています。特に、わたしは同性愛者です、といったことはないような。そういう風に話していたら、そのうち周りは納得してくれるだろうと思っています。隠さないけど、宣言もしない。そういうOpenly Gayという状態がわたしの理想です。




この理想は、わたしの場合は意識的に決めたものであり、くろすけの場合は無意識的にそういう行動をとっているという違いはありますが、二人の間ではそういう合意ができていると思います。だからまあ、街中でもいちゃいちゃしてしまうのだが。自分たちが隠さなければいけないことをしているとは思っていないので。みられると恥ずかしいが。笑。




先日、親にはカミングアウトをしたのですが、それは離婚を説明する際にそのことに触れずに話すと、親から「やり直せ」「再婚しろ」などの変な圧力がかかるのがうっとうしかったので。また、離婚について説明するのもそれを避けて通るのはなんとなく正直ではないような気がしたので。それがなければ、いっていなかったと思います。また、親との関係がものすごく疎遠、というのもあります。だから、葛藤なく話せちゃうという感じです。




すでに両親にはくろすけは大事な友人だと話してあり、二人ともくろすけはほかの友達とは違うらしいという認識はあったようです。カミングアウトをしたとき、くろすけが相手なのかと尋ねられました。




くろすけもわたしも親に対してカミングアウトをするかしないかで悩まないひとつの大きな理由は経済的に完全に独立しているから、というのが大きな要素だと思います。たとえば、今、一緒に暮らしていない理由はわたしが息子のそばにいてあげたいし、くろすけも仕事の関係でそうそう簡単に日本を離れられないからです。




これらの理由がなくなればすぐに一緒に暮らすだろうし(どちらの国で、という問題が残りますが)、そのときには親には「一緒に暮らすから」と連絡をするだけだと思います。わたしは同性愛者です、だからこの女性と暮らします、とはいわないと思います。くろすけは大事な人で、一緒に暮らしたいから、というと思います。だって、もし、相手が異性だったら、わたしは異性愛者なので、この男性と暮らしますとはいわないから。




そのときに、親が怒ると悲しかったりするかもしれないけれど(わたしの場合は、Fuck offって思うだけだけど)、実際、自分の決断で自分のできる範囲でするので、親には阻止できないと思うんです。お金を出してもらうつもりはないから、親から許可をもらう必要もないし。どっちにしてもいい年した子供がどういう生活をするのかは子供の決断だと思うし。




親から許可が必要って思うのも、当たり前と思わないで、なんでかな、って自分に聞いてみるのって大事だと思うな。駆け落ちしたっていいじゃない。ほんとに好きなら。




そういう風にして、自分にとって大事な人だと親にわかってもらうのが一番いいんじゃないかな、とわたしは思っています。




特定の相手がいる上でのカミングアウトは、下の記事でくろすけが触れているとおり、「この人とセックスしています」という言葉とほぼ同義語ではないか、と思うのです。異性の相手を家に連れて行って、この人とセックスをしています、というと親はやっぱり衝撃を受けると思うんです。だからこそ、異性との関係の場合、付き合ってる、結婚したい、という言葉にくるんでお付き合いの性的側面を真綿で隠しているような気がします。




また、親としても、もちろんなんとなく気がついているとは思うんですよ。自分が親になってはじめてわかることですが、自分の子供のことって、とても良くわかります。もちろん、常識とか親の立場から見た幸福の形を子供に持ってほしいと思うから、そう簡単に「結婚しないの?」「孫の顔を見せてくれ」攻撃はやまないと思います。




だからといって、そこで、カミングアウトをしてはっきりとした言葉にしてしまうと、親もなんとなく受け入れていたことを、自分の持っている「常識」体系にそって言葉にしなければいけなくなるので、日本という社会が持っている言語形態に隠されている「倫理」「常識」に従って受け入れられなくなったり、反対したりしざるを得なくなるのかな、とか。




要するに、自分に正直にいきていく経済的基盤があればカミングアウトなんてとくにする必要はない、とわたしは思っているのです。




そういう意味で、経済的に親から独立した段階でくろすけを見つけたわたしはとても幸運だったといえると思います。くろすけは、高校生になったときから完全に経済的に独立しているので、親に対してのカミングアウトは必要ないと感じているのだと思います。




しかし、こういう考え方を貫けるのは、二人ともかなり好き勝手に生きている人間であることがその大きな理由かもしれないです。だから、これは、わたしの個人的考えであって、これが正しいとも思っていないし、みんながそうすべきだとも思っていません。




なんだか、まとまりなく、つらつらとかいてしまいました。くろすけの記事の補足というかなんというか、二人の間にはこんな合意があるんだなという風に思っていただけると幸いです。


カミングアウトは必要ないんだー! [ちょっとまじめに]


カミングアウトをするとかしないとかっていう話を聞くたびに、自分の中に違和感があったのですが、今日しのとはなしていてその正体がわかった気がするので、メモっておきます。「カミングアウト」の意味を履き違えていたらごめんなさい・・;。




カミングアウトするかどうか迷っているひとって、カミングアウトするか、そのひとが(それほど、たとえば親より?)大事じゃないふりするかって、選択肢が極端な気がするんですけど。




僕は親に対しては、しのが僕にとって大事な人で、離婚して日本に来るなら一緒に住むし、経済的に困ってたら僕が養うし、逆に僕が養われるかもしれないし、という話はしています。友達や職場のひとに対しては、「彼女」だと紹介しています。(親にも彼女が・・とか話してるけど)。




でも「自分がゲイでした」という風には誰にもいっていません。<これが僕の「カミングアウト」の定義みたいです。




なんかね、そのひとことって、同性とセックスしました、っていう以上の意味を見出せないのですけど。大事なのはセックスしたかどうかじゃなくて、彼女が自分にとってどういう優先順位のひとなのかわかってもらうのが大切なわけで。セクシュアリティーは固定されたものではないと思うし。




だからうちの親は、僕がしのと一生一緒にいるつもりなのはわかっていると思います。でも「ただの」友達なのかしら?って感じで。




もし親が「彼女とセックスしたの?」って聞いてきたら、「やりまくりだよーv」って答えます。

しのと籍を入れるときには、入れる前に報告はするかな?別に事後報告でも良いんだけど、もしかしたらヨーロッパまで来て酒が飲みたいかもしれないので(笑)。

なんで籍を入れるのかって聞かれたら、社会的に保障してあげたいから、って答えると思います。したいから、かもしれないけど。


大名盛り [ちょっとまじめに]


1月3日は僕の両親+弟を招待して近所の蟹料理屋へ行きました。

目的は大名盛り(ズワイガニ、毛蟹、タラバガニのまるゆで)と蟹さし。

僕と父親は二日酔いで体調が悪くその日は落ち着いて飲めそうな予感・・。<父親似・・・




しのはすっかりくろすけ家の雰囲気になじんで、無口に蟹をつついたり、父親に「ひめ」とか呼ばれてお酌をされたりしています。酔って真っ赤になったしのはとってもかわいくて父親もうれしそうでした(普段はひとりだけ赤くなって母親にばかにされているせいかもしれず)。

しのにレモンをしぼってもらう僕は「甘えてないで自分でやれ」とか両親につっこみをうけてうれしかったり。両親は僕にぴったりの連れができてほっとしている様子(笑)。その横でしのはくろすけ弟にきのこが安く買えた感動を熱く語っとるし。帰り際に「彼女においしいもの食わせてやれ」と言われて小遣いをもらったので、明日からの京都旅行ではお土産を買って帰らねば。





うちの場合はあらたまって同性愛であることを両親に告げたりはしていませんが、しのが大事な「連れ」でそのうち一緒に暮らすつもりであることは話してあります。(そもそも同性愛というよりしのが好きなだけだし)。ものごごろついてからずっとかわいい女の子のはなしが僕の好む話題だというのもあり、僕の周囲(両親、友達、職場にいたるまで・笑)は僕が女の子をつれて歩くことをごくごく自然に受け止めてくれています。おんな好きとはいっていたけどほんとだったんだねー、という感じで。あとは、恋愛以外のところでも僕はハチャメチャ好き放題人生を歩んでいるので、周囲も多少のことでは驚かなくなっているというのもあるかも・・。

あ、でも18歳のときに父親と同じ年の彼氏ができたといったときにはうちの両親は蜂の巣をつついたような騒ぎっぷりだったな・・・。おっさんよりはかわいい女の子のほうがいいと思っているのかもしれん・・。


今日の晩御飯。 [ちょっとまじめに]


中華ちまき

スモークサーモン

海草サラダ




僕たちがふたりでいる時に料理をするのはほとんどしのです(僕は片付け係)。

しのが疲れているときには僕が作るけれど僕のレパートリーはお茶漬け、雑炊(市販の雑炊のもと使用)、チャーハン(市販のチャーハンのもと使用)、インスタントラーメン、くらいしかありません・・。




しのは料理が好きかつ上手です。

僕がそばにでも入れようと買っておいた(しかしそばをゆでる手間を惜しんで半年くらい放置されている・・)山菜の水煮の瓶詰めをみておもむろにもち米やら鶏肉やらを買ってきたと思ったら、なんと中華ちまきを作ってしまいました!すごい!まさか僕の部屋でそんなものが作れるとは・・。

外で食べる中華ちまきよりも甘くなくてとってもおいしい。

スモークサーモンだって、袋からそのまま食べるのではなくてちゃんとお皿に盛られてドレッシング(みたいなもの・・)やらねぎやらかかっています。




この感動をいつまでも忘れないように後片付けに励もうと思います。


We'll never say goodbye [ちょっとまじめに]


ずいぶん昔、まだ日本にいたころ。深夜放送のTVのBGMかなにかで耳にした曲です。それがとても印象に残っていて。




突然、どうしてもどうしても聞きたくなり探しました。頼りは、うろ覚えに覚えていた最後の一行のWe'll never say goodbyeだけ。メロディーは印象的だったので覚えていたのですが、サーチのエントリーに、るーるるるるーるーるー♪なんて書いてみてもまったくだめです(当たり前だー)。歌って踊れるコンピューターほしい・・・。




そんで見つけました。You Tubeすごいぞ。サイモン・アンド・ガーファンクルの曲だったんですね。一晩中繰り返し聞いていました。






↓ここで聞けます。


世間との距離 [ちょっとまじめに]


したの記事を読んでちょっと考えたことがあるのでつれづれに。




しのは世間と関係していないと自分の存在が確認できないらしい。

だから、僕の周囲は(すくなくともいまのところ)僕としのの関係を自然に受け止めてくれるひとばかりでよかったなーと僕は思っている。同時に、僕が世間様(どなたかはしらないが)の常識から外れることにまったく葛藤がない人間であることも、よかったなーと。

もし僕がしのとの関係を世間にオープンにすることに対して悩んでいたら、しのは悩むくらいだったらやめよう、といって手を離してしまいそうだから。




僕は世間に対してマイノリティであることに全く葛藤がない。

というのも、マジョリティに属する人間が「あなたのためだからマジョリティに属せ」という言葉はその人のエゴを自分の言葉で言い表すことができないための方便であることが多いことを経験しているし、こちらがこちらの主張を認めさせようとしなければそこに葛藤が生じないこともまま経験しているので。こちらが武器をとらなければ向こうも武器をとらない、という感じですかね?

えてして(というか昔の僕は)マイノリティであるときにはそのことを主張しがちなんだけど、そんなことをしなくても自分は自分だし・・という。




そして僕のまわりにいる人間は僕の世間一般からのはずれ具合にすでに気づいてくれているので、「彼女ができたよーv」といっても、多くの常識はずれな行動のひとつとして捉えられているようです。




しのは自分の両親に離婚したことを告げるのに葛藤があるみたいだけど、僕はいつもどおり、悲観的にならずに、しののご両親も愛することができたらなーと楽観的に考えています。


二人の関係 [ちょっとまじめに]


わたしは自分ではそれほどにも思わないのだけれど、ほかの人から、まあよくそこまでいろいろあるわね・・・といわれるような人生を送っているらしい。自分にとってはそれが日常になっているので、特にすごいとも思わないけど。そのときそのときの状況にできるように対応してきていただけで。一般的に言ってドラマの素材になりやすいわかりやすい「非日常」を経験してる、といえるのかもしれない。ただ、それは、わたしにとっては日常の一部だから、非日常にはなり得ないのだけれど。




その中で自分でもこれは厄介な経験をしたな・・・と思うことがある。いわゆる「精神的虐待」「性的虐待」と呼ばれる部分にまつわることだ。幸いなことに後者に関しては、それほど深い傷にはなっておらず、フラッシュバックがある程度。また、それらの経験の一部として持っていた、「ああ、今、あの車が突っ込んできて死ねたらいいな」というような「死亡願望」も、毎日のこととなると、これまた自分の日常の一部になって退屈な繰り返しに過ぎなくなる。




そういうわけで、フラッシュバックも死亡願望もうつ症状も完全に自分の日常となっていた。未来に希望もないので、特に何をしようとあせったりもしなくていい。自分の人生は、なんて考えることもない。日常的に傷つき続けているので傷の痛みも日常のものだ。死亡願望があるのだから、死ぬ瞬間にはやっと死ねるとうれしいだろう。




彼女と出会うまでは。




彼女とであって、今まで自分が置かれていた場所から抜け出すことができて、自由になったはいいが。傷の痛みは過去のものになり、わたしにとっての非日常になる。そして、自由になった分、自分の傷をえぐる地雷を踏んでしまうことも多い。この非日常の痛みはわたしをパニックに突き落とす。




うつ症状はほとんどなくなり、死亡願望もなくなった。




が、自分に自信がないこと、ことに愛されることに関しての自信のなさはどうしようもない。体を利用されることにまつわる傷も。また、愛されている自信に基づき、相手にさまざまなことを求める勇気がわたしには決定的に欠けている。




だから、彼女のほんのちょっとしたミスともいえない小さなことでわたしはいらだち、自信をなくし、求めるよりも先に手を放してしまおうとする。求めて与えられないつらさを経験するくらいなら、はじめから持っていないほうがいい、という最低のずるさだと思う。




それと同時に、わたしは自分がどれほど彼女を必要としているかをよくよく知っている。




それでも彼女を必要とする日常よりも、自分に戻ってきた非日常の痛みに恐れおののき、その痛みを二度と経験したくないと、彼女がいる日常がその非日常の痛みをもたらす原因なのだと、彼女を理不尽に責めてしまう。




ここしばらくはその繰り返しだった。




・・・と、ここまで書いて思うんだけど、よくくろすけはわたしに嫌気がささないものだ・・・。




わたしは、いつになったら痛み続けるため痛みに鈍感になった日常ではない、痛まない日常を自分のものとして受け入れられるのだろう。そして、その日常には非日常の痛みも時折入ってくることを。




そうなるためにはくろすけが必要なんだ、と思っている。


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