柳沢発言もあれだけどさ [ちょっとまじめに]
最近、YouTubeで「ごくせん」をみている。なかまゆきえ(漢字知らん)がけっこう好きなのです。目が大きい女の人が好き。映画「大奥」は最悪だったけど。
「ごくせん」が放映されていたとき、わたしは仕事上の関係で日本人の駐在員の子供たちといろいろと関係を持っていた。そのときの子供たちが面白いんだと大騒ぎをしていて、日本から彼らのじいちゃんやばあちゃんが録画をして送ってきてくれるビデオが引っ張りだこになっていた。貸してあげるといわれても、ビデオデッキを持っていなかったので、丁重にお断りをしていた。
たまたまYouTubeで見かけたので、閑だし、見てみた。
けっこう面白い。話は単純で、現実では絶対にこうはいかないと思うけれど、こういう「現代の御伽噺」を必要としているのだろうな、とぼんやり思う。人の善意が簡単に通る、思いやりとやさしさで問題が解決する、努力は必ず報いられる。そういう夢を必要としているほどなのかな・・・と曖昧に考えたりもする。
でも、気になるのは、ドラマ全体を貫くヘテロ思想だ。まあ、男子校が舞台なんだから、男子が女の子にあこがれるのはいいとして。その中に男にあこがれるゲイの生徒を入れろ、と要求することは、このドラマが架空の漫画的空間であることを考えればばかげた要求だとは思う。これは御伽噺なのだから。現実に即さない「理想」の空間なんだから、と思う。何もかもがスレテオタイプファイされてるのだし。
こういうドラマを作るなとか批判するくらいならば、自分の子供が見るときに一緒にみて、
「この学校の生徒が100人なら、本当は6人は同性愛の男の子がいるはずなんだけどね」
とか、恋人と一緒にみるときに
「こういう精神論って第二次世界大戦に突入していったときの軍部の思想に通じるよね」
とかいって、相手の楽しみを台無しにする楽しみを味わえばいいのだ(暗い?笑)。
でも、第8話を見て、ちょっとカチンと来た。
でてくる女性の先生のうちの一人、保険の先生は自分の夫と死に別れているのだけれど、その夫と先妻(この人も病死)の間の子供を1歳から6歳まで育てていた、という設定。その子供が彼女に会いに来て、お母さんと暮らしたい、とわがままを言うのだ。それで、
「母親だろ!」
「血がつながってなくったって、家族だろ!」
みたいな安易な議論で子供と一緒に暮らすことになっちゃう。こらいかんやろ、と思う。女だったら母親なのか。しかも、一緒に暮らすか祖父母が預かるかみたいな二者択一しかないのはなぜだ。
柳沢発言が問題になってるけど、あれは彼一人の意識じゃないと思う。社会の中に深く埋め込まれている意識・・・というか、女について話すと、「いずれは結婚、子供を生んで母親に」みたいな話しかできないようになっている言語に埋め込まれた社会意識が問題なんだと思う。だから、ドラマの中で
「一人の女だろ!」
「血がつながってない子のために自分の人生台無しにするのかよ!」
みたいなせりふはいえないんだろうな。ドラマ的リアリティーがなくて。
つい最近も、とある大人気ブログで「やっぱり女の子はやさしくて料理が上手であれば馬鹿でいい」というような表現を読んで一瞬スルーをしてしまった自分がいた。だって、日本語として自然なんだもん。「料理がへたで気が強くても頭のいい女の子が最高」って日本語として不自然だもん。
だから、柳沢発言についてがたがた言う前に、自分自身で息子と将来の漠然とした話をしているときに
「将来のパートナー、男でも女でもいいけど、『君のために・・・』みたいなことをいう人とは一緒になったらあかんでー」
なんて、不自然な言葉遣いをしてみるようにしている。そして、竹内マリアの「元気を出して」で「彼だけが男じゃないことに気づいて~♪」と歌われたときに、間髪をいれず
「男だけやないで~女もおるで~」
というくろすけが好きだな。
(って、最後はのろけで締めくくりです。笑)